この著者は、Wikipediaによると、このような人です。
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伊勢崎 賢治(いせざき けんじ、1957年7月6日 - )は、平和学研究者。
東京外国語大学総合国際学研究院(国際社会部門・国際研究系)教授、
自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会呼びかけ人。
NGO・国際連合職員として世界各地の紛争地での紛争処理、
武装解除などに当たった実務家としての経験を持ち、紛争屋を自称する。
現在は大学教授として教務する傍ら、評論家としてメディアにも出演しており、
紛争解決請負人とも呼ばれる。
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インド、東ティモール、シェラレオネ、アフガニスタンなどの
紛争地域で活躍された方です。
この本は、その伊勢崎さんが、福島県の高校で5日間にわたる
「戦争・紛争」についてのお話をし、生徒たちと対話をされた記録です。
この本には、こんな詳細を高校生に話されたのかと思えるほど、
専門用語も交えながらの現地の紛争・混乱状況が書かれていました。
まず、このポイントからお話は始まっています。
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経験って、実はあまりあてにならないんですよ。
だって、経験とはそもそも、
その個人の主観というプリズムで見たスナップショットの連続で、
それをまた同じ主観の中で編集したものでしかない。
報道だって同じ。
カメラで撮影した映像も、まずアングル自体、撮影者が決めたものだし、
構図の一部を切り取って強調することもできる。
有名な話ですが、米軍のイラク侵攻のときも、
サダム・フセインの像が群衆に引きずり降ろされ、
小さな子どもがフセイン像をスリッパでペンペン叩いている光景が、
繰り返し、繰り返し報道されました。
靴で人をたたくというのは、イスラム教では大変な屈辱です。
あの映像だけを観ると、イラクの人が国を挙げて
「フセインを倒してくれてありがとう」
と言っているかのように受け取ってしまうけれど、
カメラを遠くにひくと、数百人がかたまってワイワイ騒いでいるだけで、
まわりは静かなんだよね。
一応、それは米軍に感謝するイラク人がいるという事実を報道してはいますが、
同時に、そういう人々はほんの一部でしかないという
別の事実を視界から外せる。
そんなわけで、いわゆる経験者が話す経験値というのは、
すべて、その本人に普通がいいように演出したものと思ってください。
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私たちが報道を通して見聞きすることは、本当の事実なんでしょうか?
いろんな思惑のフィルターがかかっていそうですね。
問いかけもあります。
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みなさんは、日本は平和だと思いますか?
実は僕にとっても、あまりはっきりしていないのです。
戦争と平和が対立する概念かどうかということも、
そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。
なぜかというとほとんどの戦争が、平和を目的に起こされているからです。
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そうなんです。
これまで人間は、平和を求めて戦ってきたのだと感じます。
先日書いたゲラダヒヒの生態のことを思い出します。
それからすると、平和って、なんだろうなって思います。
ヨハン・ガルトゥング(学者 ノルウェー人)の定義が紹介されています。
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- 消極的平和:紛争の原因になりそうな問題はいろいろあるけど、武力衝突や戦争がない状態。深刻な貧困、差別、人種の問題など、社会が持っている構造的な問題が、人間を犠牲にすること。=「構造的暴力」
- 積極的平和:武力衝突や戦争がないのに加えて、紛争の原因になりうる要因もない状態。
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「構造的暴力」がなくならないかぎり、戦争はなくならないでしょう。
ゲラダヒヒは、積極的平和な社会をつくっているのに、
どうして人間は、構造的暴力を生み出しているのでしょうか?
私は、放課後子ども教室で、多くの子どもたち、
またその母親・父親と接する機会があります。
これは経験です。
目の前で起こっていることを見ています。
そこで、ある評価・判断が生まれますが、それは正しいのでしょうか?
この親にしてこの子あり、という感覚ですが、
正直、表面的なところしか見ていないのです。
社会的でない保護者は、なぜそうなのか?
そこには何らかの原因・背景があるはずです。
知ったかぶりして評価・判断するのではなく、
見えていないものを、しっかり見ようとして、
短絡的な評価・判断をしないようにする、
そこまでできて初めて経験と言えるのかもしれません。
だから、報道をうのみにしないようにすることが肝要!
そうはいっても、なかなか難しいですね。
そのために、私は本を読んでいるのかもしれないなと思います。
そして、こうやって書くことで、経験が深まっていけばいいなと思います。
世界平和を望んでも、無力感にさいなまれるだけです。
世の中の人々が戦うのをやめさせることはできません。
できるのは、自分が平和にいることです。
自分が平和にいれば、まわりも平和になっていきますね。
それがつながり合っていくと、コミュニティが平和になるでしょう。
できることはたぶんそこまでなんだろうなって思っています。
認定NPO法人テラ・ルネッサンスの鬼丸昌也さんの言葉が思い出されます。
「僕たちは、微力だけど、決して無力ではない」