どんどん回り道している感じですが、
「先にあるのは○○」というものを書こうと思っているので、
ここに書こうとしているゲラダヒヒのお話も、
そこのしっかりつながっていると感じています。
ゲラダヒヒで検索して、見つかった画像の中から選んだものです。
ゲラダヒヒの存在は、この本で初めて知りました。
この本の中で、日本の霊長類研究の第一人者である
河合雅雄先生から聞いた話が紹介されていました。
ゲラダヒヒの生態は感動ものでした。
まず、この問いからスタートしています。
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なぜ人は、国家を作り、敵対し、戦争を起こすのだろうか?
国家とは、巨大ななわばりのことである。
個人も集団も、なわばりを完全に侵されたとき、
「キレ」て、その攻撃性をむきだしにする。
では、果たして人類は、その起源から、
強いなわばり性や攻撃性を持っていたのだろうか?
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この問いの答えの代わりに、ゲラダヒヒの生態が紹介されていました。
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ゲラダヒヒは、エチオピア北部の高地に住むヒヒの一種。
チンパンジーやゴリラのような高等類人猿より一段低い位置にある。
- そんなゲラダヒヒの家族は、なわばりを持っていない。
- なわばりを持たない家族がいくつか集まって群を構成する。
家族と上位の集団(例えば村)といった重層構造を持った
社会を構成しているのは霊長類のなかでも、
マントヒヒ、ゲラらヒヒ、そしてヒトしかいない。
- ゲラダヒヒの群には上下関係もない。
- 群を構成する家族同士は台頭で、平和な社会を築いている。
- 2匹で1つの餌を食べるときには、仲良く並んで食べる。
ゲラダヒヒは、闘争的ではないので、他の種との生存競争に敗れて、
海抜3,000メートルの高地に追いやられたのだろうと考えらている。
他の種が近づくことのできない断崖絶壁を住みかとし、
穏やかにひっそり暮らしている。
- 動物地理学上は、このような種は「残存種」と呼ばれる。
- 狂暴、獰猛に見えるゴリラもまた、なわばり意識がなく、そのために、アフリカ中西部のわずかな森林に追いやられた残存種の一つである。
ゲラダヒヒは野獣であるから、小さな衝突がないわけではない。
しかし、ほかの猿なら衝突の際には順位の上のものが下のものを追っかけたり、
威嚇したりかみついたりという行為が一般的だが、
ゲラダヒヒの場合には、暴力は使わずに、なだめすかしたりして、
どうにか物事を丸く納めるのだという。
- 直接攻撃性をぶつけ合うのではなくて、相手の攻撃を和らげて寛容な仲間関係を作り、集団を維持していくことに長けている。
- この非暴力主義は、群の内部だけでなく、外部に対しても示される。
大きな群同士が偶然出会い、互いに何事もなかったかのように融合して、
悠々と餌を食べ合っている姿は感動的でさえあるという。
この特異な集団形成を可能にしているのは、ゲラダヒヒの言語能力にある。
- 声、表情、身振り手振りが大変複雑。
- 30種以上の音声が観察されている。
- いろんな意味の音声を単独で発声するだけではなく、それを組み合わせて使用していることもわかってきた。
力による支配が一般的な他の猿の社会では、
細かいコミュニケーションのための言語は必要とされない。
相手を威嚇するための叫びや、服従を示す鳴き声だけで事足りる。
ゲラダヒヒの持つ伝達メッセージのなかには、
他者を安心させる、なだめる、懇願するなどの曖昧な表現が多く存在する。
「キレル」という言葉が、なんともやるせなく、不愉快なのは、
通常の精神状態とキレた状態の間に、
なんのつながりも見いだせないからではないか。
ゲラダヒヒ以上に複雑な音声コミュニケーション手段を獲得している
私たちヒトは、本来、キレル前に、すねたり、いじけたり、
ちょっと苛だったり、涙目になったり、
さまざまな感情の表現方法を持っているはずだ。
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ゲラダヒヒの穏やかさ、分かち合って生きる姿、
その平和な生活を支えるコミュニケーション力、
私たち人間は、彼らからの学びをどう生かしたらよいのでしょうか?
ゲラダヒヒの紹介の後、最初の問いの続きがありました。
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キレル事件が起こったあとでは、必ず「子どもは何か信号を発している」
という識者の意見が新聞を賑わす。
明治以降、日本の学校教育は、
この信号を消し去る方向にのみ働いてはいなかったか。
(中略)
戦前戦後一貫して、教室では曖昧なものは悪とされ、負とされた。
(中略)
私たちは、時代の大きな曲がり角に立って、価値観の転換を迫られている。
(中略)
知識や小手先の話術ではなく、身体から出てくる微細で多様な表現が、
すなわち、全人格が、コミュニケーションの優劣を決定する要素となる。
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これは子どもの問題なのでしょうか?
私には、大人の問題であり、社会の問題であるように思えます。
自分の信号を素直に発している人は、どれだけいるのでしょうか?
それができる社会とはどんな社会でしょうか?