2カ月前にメモしていたものがある。
そのときに感じたことはもう忘れてしまった。
大晦日を迎えるにあたって、このことに向き合ってみる。
それは、新年に考えてみたいことにつながるからだ。
『怯えの時代』(内山節著 新潮選書)より
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現代人は確かに自由なのだと思う。
もちろん世界のさまざまなところに、
自由を圧殺された人々がいることを私は知っているし、
それが国内問題でもあることを知っている。
しかし、あえて私は現代人は自由だという。
なぜなら、現代の自由は、
現実を受け入れるほかなかった喪失の先に現われてくる自由でしかないからだ。
私たしは携帯でメールを打ち続ける自由がある。
テレビのチャンネルを思うがままに変えられる自由がある。
今日の夕食を好きなように決める自由がある。
ただし、それは携帯電話がつくりだしたシステムを受け入れることによってだ。
テレビというメディアを受け入れることによって、だ。
サイフの中身を受け入れることによって、だ。
現実を受け入れないかぎり自由を手にすることもできないという
包囲された世界のなかの自由が、私たちにはある。
そして現実を受け入れたときに手にしなければならないもう一つのものは、喪失。
もしも、「なぜ」という問いによって現実を受け入れることができなくなったら、
私たちは自由も失うことになるだろう。
短期的な利益の増大が長期的な不利益を増加させる。
ある視点での「善」が、
たちまちある種の「悪」を顕在化させる時代がはじまった。
これでは何が「善」で何が「悪」なのかよくわからない。
その結果、善悪の定義が共有できないままに浮遊する時代が展開し始めた。
善悪を判断できないままに、悪に怯える時代がである。
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この哲学者の言葉をどう理解したらいいのだろう?
短期的な利益の増大が長期的な不利益を増加させる。
これは、その通りだと思う。
言ってしまえば、人間の歴史は、短期志向の積み重ねではないか。
長期的に、日本の少子高齢化、膨大な借金、もっと大きな地球規模の問題、
戦争、侵略、殺戮、虐待、貧困、温暖化、存続可能性、.....。
計り知れないくらいの怯えの要素はありながら、
今も、多くの人びとは短期志向で生きている。
いや、心のなかでは怯えているが、見てみぬ振りをする、
考えてもしかたがないという無力感、脱力感。
だから、見ようとしないし、何もしない。
怯えが現実化するとしても、ずっと遠い先だと思い込もうとしている。
そしてさらに、恐ろしいのは、意識の高い若い世代は多くいるが、
諦観と身近な現実に満足する多くの若者の意識である。
ネット、スマホの急激な普及で、関心のあることにはのめり込むが、
関心のないことには、まったくの無関心、無知状態になっている。
多くの若い世代の人たちが、世のなかで起こっていることを知らない、
という愕然とするような報道にも接することが多い。
これまで報道されてきたニュースを見る限り、
私自身はこのような感覚をもつようになっているのは確かだ。
この本は、2009年に出版されている。
十数年経った今、その「怯え」の要素は、
より深刻度を増しているのではないだろうか。
だからといって、悲嘆に暮れていてもしかたがない。
最近もっと古い、1989年に書かれた本を読んで驚いた。
そして、メモをたくさん取った。
その本を読んだのは初めてではないはず。
以前に読んだ記憶はあるのだが、そのときには何も感じなかったのだろうか?
今、そこに書かれている言葉は、ズンズン迫ってくる感じなのだ。
そのことを、新年を迎えたら、じっくり考えてみたいと思っている。
写真に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。