大人も子どもも生身の人間

【感じる時間】「ゆめパ」は「ゆめの場」 「矢川プラス」は「多世代の共創の場」 - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)

には書ききれなかったことを書きます。

 

西野さんの言葉の中には、響くものがたくさんありました。

 

「不登校」という言葉は、大人が勝手に決めて使っている言葉です。

そこには、「登校」するのが当たり前で、

それができないことを「不」で表現しているのです。

「近い将来、こんな言葉は使われなくなるでしょう」

とを西野さんは言われています。

 

私も考えてみました。

「不」は、...しない、....でない、という否定の言葉です。

さらに、そこには、「よくない。悪い」という意味が含まれています。

かつては「登校拒否」という言葉があって、

それがよくないということで、

「不登校」に変わったと私は理解していたのですが、

必ずしもそうではないようです。

 

いずれにしても、不登校という言葉は、

登校が正で不登校が悪というイメージがして、好きではありません。

自分の意志で、行かないということを選択したのだから、

どちらかというと、「登校拒否」のほうが実体に近いと思っています。

ネットで言葉の定義を調べても、

頭が混乱するばかりで意味がないので止めました。

 

西野さんは、学校に行かないと自分で選択したという、

その子にある「強さ」を見られています。

 

映画に出てくる、いわゆる不登校の子たちは、

ダメな子ではないことがよくわかります。

逆に、自分をしっかり持っている、自分のやりたいことがある、

そして自分の思いを聞いてもらえるとわかれば、

しっかり伝えることができる、かしこい子たちです。

この映画を観ると、この子たちのほうが、普通に学校に行っている子たちより、

将来世の中に出て活躍できるのではないか、そう思えてしかたがありません。

 

クロストークの内容を思い出しながら、私なりに表現してみます。

その言葉通りではないかもしれませんが、話の脈流には忠実です。

 

細田館長:

  • 矢川プラスにはオープン以来、多くの子どもたち、そして親子が集まってきました。しかし、地域の大人や高齢者の関心が低いのです。
  • 矢川プラスは、乳幼児から高齢者までが楽しめる場を目的としていますが、現状は違っています。どうしたらいいのかなと思っています。

西野:

  • ゆめパも、2003年設立当初は、中高生の居場所を目的としていました。17歳の少年のおぞましい事件が相次いだ時期だったのです。
  • でも、いちばん多くやってきたのは小学生。そして幼児を連れたお母さんたちだったのです。
  • 実際には、狙いとは違うことが起こるし、失敗をたくさんして、試行錯誤していけばいいんじゃないですか。
  • 大事なのは、子どもが真ん中にあるということ、子どもの居場所ができれば、大人や高齢者は自然と集まってくるんです。

細田館長:

  • 居場所なので禁止事項やルールを設けたくないと思っていました。何かあればその都度話し合っていけばいいと考えていたのですが、困ったことが起こっています。
  • 2階には、学習コーナー(正確ではない名称)があるのですが、そこがゲームコーナーになっているんです。ゲームは一人でするんじゃないんですね。何人も集まって、大声で騒いてゲームしています。
  • 勉強したいと思ってきたけど、あまりにやかましくてできないので、あきらめて帰った子がいて、保護者からクレームの電話がありました。
  • だからといって、ゲームをやめさせればいいとは思ってはいないのですが、...。

西野:

  • ゲームがダメだと思うのは大人の価値館、いわば偏見ですね。
  • これだけ世界中の子どもたちが、夢中になっているゲームには、何か子どもたちを惹きつけるものがあるし、それによって子どもたちは成長していくのでしょう。
  • 一方で、落ち着いて勉強をしたいと思っている子もいて、その子たちの思いも尊重する必要があります。
  • ゆめパにも、設立当初、学習室(正確ではない名称)がありました。子どもたちからブーイングが起こり、そこに置かれていたパソコンも壊されてしまいました。話し合った結果、一番人気のあった名前は、「ごろり」でそれが採用されました。家でも学校でも、ダメダメ言われてできないことを、ここでは思いっきりやりたい、ゴロゴロしたいし、ゲームも存分にやりたいというのです。
  • ゲームは、大人でもはまりますが、子どもたちの冒険心をそそるものでしょう。逆に言えば、子どもたちは、その冒険心を満たしてくれるものが他にあれば、もっと面白いものがあれば、ゲームばかりをやることはないのです。
  • ゆめパでも、「ごろり」の他に落ち着いて学習できる場が必要だと思っていました。しかし、市がつくるものなので、長い年月がかかり、17年を経て3年前に、もう一つの静かに学習できる部屋ができたのです。

西野さんはこう続けます。

  • ゆめパは、なんでもありな自由な場ですが、自由とは、子どもに好き勝手させるということではないのです。
  • 「オレがやりたいことを目一杯やるだけ」そんなことではないのです。それをすれば、他人の「自由という権利」がそこなわれるかもしれないのです。
  • 自分が楽しいと思っても、他の人が不快だと感じれば、それをすることは、「自由」ではないのです。
  • では、それをやってはダメ!と注意することや禁止することで、みんなの自由が守られるでしょうか? そうではないですね。
  • 自由とは、大人が子どもと対等に接することで生み出されるものなのです。
  • 大人も人間、大人も不快に思うこともある、それを素直に表現すればいいのです。「君が好き勝手に走り回るのは、それでいいかもしれないが、ここに小さな子どもがいて、その子にぶつかってケガをしないかとひやひやしている。そうなったらとても悲しいので、ここでは走り回ってほしくない」
  • 叱るのではなく、I-Messageで伝えることが大事なのです。

 

世間では、大人が上で子どもが下だという風潮があります。

そして、子どもは指導しなければいけない、しつけが大事だと、

錯覚している大人が多いと私は感じています。

すべてが思い込みなんです。

もう一つ言えば、大人に余裕がないから、そうなるんだろうと思います。

 

この映画に出てくる子どもたちを見ていると、彼らは人格だなと思います。

大人も子どもも対等なんです。

そして、大人も子どもも、感情をもった人間同士なんです。

 

大人はそんなに立派なんですか?

こどもができないことを、大人はなじりがちですが、

そんな自分は何でもできるのでしょうか?

子どもにこうしなさいと言いながら、

自分はそれをやっていない大人はたくさんいます。

子どもにも、心や意思があるのです。

だから、子どもたちの言い分をしっかり聴くことが、

なによりも優先することだと思います。

 

でも、そんな聖人君子のようなことはなかなかできません。

だったら、素直に大人も自分を出していけばいいのではないでしょうか。

しかし、そこにはひとりの人間として、

一人の人格としての真剣味が必要だと思います。

 

大事なのは、「子どもに烙印を押さない」ということです。

子どもたちのあるがままを受け入れる度量が必要です。

その度量は、どうすればもてるでしょうか?

 

大人自身が、自分を大事にすることだと思います。

大人がイキイキすれば、子どもはイキイキします。

正のエネルギーが交換されるし、相乗効果を生んでいく、

そうですよね!