本を読み、また、学童保育やドリマ授業の経験を踏まえながら、
「しつけ」について、何度か書いてみた。
ライフワーク柄、いつも「しつけ」は、頭から離れようがない。
私は「しつけ」という言葉が、好きになれない。
最近読んだ本の中に、こう書かれていた。
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児童心理学者、平井信義先生は、
子どもはケンカをしながら、健やかに育つ、
とおっしゃっています。
(中略)
平井先生のおっしゃる「性善説」からしますと、
4歳までの子がやることは、すべて「善」であって、
すべてを認めてあげることで、
思いやりのある子に育つのだそうです。
姉妹をいじめることも認めるなんて、とお思いかもしれません。
でも、そうではないのです。
まず、私の長男の場合でしたら、
姉妹と仲よくしようとする意識は、
4歳までは、親は子どもにすべきではない、
と知るべきだったのです。
(中略)
自分を信じてくれていない人を信じられないのは、
子どもにとっても、当然です。
また、よい子と悪い子というのも、
所詮は大人の都合で決めた基準であって、
私が悪いことと決めつけていたことは、
息子の悪意による行動ではなかったのです。
それに気づいたときから、夢のなかまで長男に謝り続け、
本来のやさしい才能あふれる長男に戻っていってもらうまで、
絶対に、自分の過ちを忘れまい、と私は誓いました。
『ダメ親と呼ばれても 学年ビリの3人の子を信じて
どん底家族を再生させた母の話』
ああちゃん さやか(ビリギャル)
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どうして「しつけ」という言葉がいやなのかは、私自身が、
- よい子と悪い子というのは、所詮は大人の都合で決めた基準である
- 子どもには悪意はない
これらは、その通りだと信じているから。
学童保育では、ちょうど幼児期から児童期に移る小学校低学年生と接し、
ドリマ授業では、児童期後半から思春期に移る子たちと接している。
私の通う学童保育は、五感を大切にし、
友だちとの葛藤を通して成長していく子どもたちを支えようとしている。
しかし、世間一般で感じるのは、
モンテッソーリがいう発達の4段階の1~3の幼児期、児童期、思春期が、
「勉強」というもで侵されてしまっているということ。
特に、都会に行けば行くほど、そう感じる。
そして、その反動で、大学受験を終えたり、社会に出ていく時期、
一番勉強が必要な時期であるはずの「青年期」にほとんど勉強をしなくなる。
昨日の学童保育でも、たくさんの工作をやり、
また、子どもたちの葛藤もあった。
ある女の子が、ある男の子から、
「私がつくったものがダサいと言われて悲しかった」
と言った。
その男の子は、別のところでは、
「○○(呼び捨て)が、自分の悪口を言った」
と言って、怒ってやり返しをしていた。
また、その女の子も決して負けてはいないのである。
それでいいんだと思う。
彼らには、
- 自分がいちばんという意識がある。
- 言動に悪意はない。
- 口に出す言葉や行動が、ほかの人に及ぼす影響を推し量れないだけ。
- 人の話は聞かない。
- 大人が言うことを聞かせようとすれば、彼らはお利口なふるまいをする。
- しかし、次の瞬間には忘れている。
それらがこの時期なかったら困るよね。
そして、だんだんと、
人のことも大事、話を聞くのも大事ということを体感し、
経験を重ねて、身についていく。
この発達の段階を飛ばそうと思ってはいけない。
大人の立場ではなく、子どもが必要としているものは何かを考える。
ケンカ、けが、失敗は必要なもの。
この積み重ねをしっかりやっていかないと、
思春期でほころび、ほんとうに困るのは、青年期になってから。
斎藤茂太さんのこの言葉(Tip 2150)をわきまえたい。
大人は、子どもから、無限の将来を奪いとってはいけない!
どうしたら、それができるのか?
日々それを感じ、考えている。
幸いにも、最近採用されて、私が行くところに応援に来てくれている
学童保育の指導員の大人の方々が、とってもステキだ。
子どもを指導する気持ちではなく、子どもと一緒に遊ぶのを、
その人たち自身が楽しんでいる。
子どもの気持ちがわかる人たちで、とってもありがたい。