『魔法のしつけ』長谷川博一著より
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「ほめて育てよ」と言われますが、私はこれもあまり賛成できません。
ほめるというのは、子どものよい面に着目し、
そこにプラスの評価をすることを意味します。
「ほめること」に走りすぎると、
子どもはほめられることに過敏になって、
そうしてもらうためによいことをしたり、
がんばったりするようになってしまうからです。
子どもが何かをするのは、
そうしたいと感じる理由、動機があるからです。
この動機は、
「内発的動機」と「外発的動機」に大別することができます。
「内発的」とは、そうする理由が子どもの内面(気持ち)から出ているもので、
「やってみたい」と感じる場合はそれに当たります。
(中略)
内発的動機に従って動くことができると、子どもは自信を深め、
新たな事態においても自分で判断して対応できるように
主体性を伸ばしていくことができます。
しかし、外発的動機で動いてきている子どもは、
外からプラスの評価が与えられないと、
その行動の支えを失ってしまいやすいのです。
もちろん、自分に対する信頼感も低下しているでしょう。
こういう子どもは、これから先もがんばり続け、
認められ続けるかぎり、破綻は生じないかもしれません。
しかし、思春期以降、学業の行き詰まりや対人関係のストレスを経験すると、
もろくも崩れてしまうような危険がつきまとっています。
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これは、その通りでもあるし、そうでもないと言えます。
学窓保育での子どもたちの行動を見ていると、
宿題は、あくまでも外発的動機だということがわかります。
来たらすぐ宿題をやることにしています。
やらせるということはしないのですが、
8割がたの子は、すぐにやろうとします。
子どもの性格や性癖もあって、
分かってはいるけど始められない子がいたり、
始めてもすぐ気が散って、遊びに走る子がほとんど。
学校では、決められたやるべきことをやっていかざるをえません。
友だちと羽目を外す時間は限られています。
だからでしょう、学童で一堂に会すると、もう手が付けられなくなります。
宿題中もそうです。
学校というのは、ほとんど例外なく、
人生で最初に「ねばならない」を知る場なのだと思います。
小学校1年生から、外発的動機がどんどん増えていきます。
純粋にその子のことを認めてあげて「ほめる」ことは、
どんどんやっていけばいいことだと思います。
その子のプラスを伸ばすことができるように。
しかし、「ほめる」には、厄介な部分があります。
- 「絶対的」から「相対的」へ
- 「承認」から「評価」へ
このような「ほめられ方」を多く経験していると、
上記の
「外からプラスの評価が与えられないと、
その行動の支えを失ってしまいやすい」
ことになりかねません。
ドリームマップでは、主に小6や中1の子たちと接していますが、
素直に「自分の好き」を人前で話せなくなっている子が
かなりいることにいつも驚かされます。
人の目を気にするようになっているのでしょうか。
学童保育の小1-2年生には、そんなことはありません。
どんなものでも、自分の作ったものは自慢します。
帰りの会のときに、自分の作ったものを、
前に出て紹介してみてというと、みんなが手を挙げます。
そのときに、何を作ったのかだけではなく、
どんなことに苦労したかなど、プロセスも聞きます。
大人は、「ほめる」だけでなく「聴く」ということを大事にしています。
ドリマでもそうですが、テストの成績とは違って、
出来上がったものがどんなに立派かではなくて、
そこに至るプロセスでやってきたこと、やろうとしたことが大事なのです。
そこを「認めてあげること」、「聴いてあげること」が大事なのです。
でもね、学童の子どもたちは、みんな超自己中です。
人の話はまったく聞いていません。
別の子が自分の作ったものを紹介していても、
まったく聞いていなくて、自分の好きなことをやったり、
男の子は特に、他の子とふざけたりしています。
そんな年ごろなんですね。
遊びや虫取りや工作などなどは、純粋な「内発的動機」です。
いま、彼らは、それに夢中です。
それを、そのまま持って成長していってほしいと思って、
日々子どもたちに接しています。
「しつけ」って、
大人の意に従わせることでは決してなくて、
子どもの成長のためだということですね。