Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』

「ここいまタウン」への歩み

【学びの散歩道】子どもたちの将来は大丈夫なのだろうか?(150) 子どもの本質は変わらない

 

前回の(149)エンタテインメント化(?)する「体験」で、

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昨日今日で読んだ本のまえがきのこの言葉が目に入りました。

 ” 最近「偶然性」がなくなりつつある "

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これを引用した本は『遊びと利他』(北村匡平著 集英社新書)です。

そこに、「エンタテインメント」と「プレイ」という言葉もありました。

 

この本には、3つの遊び場で、

子どもの遊びと遊具の関係性についてのフィールドワークが紹介されています。

  1. 第二さみどり幼稚園(福井県敦賀市の幼稚園)
  2. 羽根木プレーパーク(世田谷区プレーパークの発祥の地)
  3. 森と畑のようちえん 「いろは」(大阪府南河内郡川南町にある森のようちえん)

2.については、このブログでも何度か書いています。

その一つがこれですが、いまだにまだ現地に行っていません。

【学びの散歩道】子どもたちの将来は大丈夫なのだろうか?(30) 仮面をかぶる子どもたち - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』

 

この本から引用します。

 

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子どもの本質は、時代を隔てても変わらない。

現代の子どもでも、場所を変えれば思い切り遊びはじめる。

心から楽しんで危険なことにも挑戦する。

変わったのは大人の意識と社会の環境の方である。

公園をガチガチのルールで縛りつける大人の論理で

子どもは遊ばされているのだ。

むしろ、思い切り遊ぶ自由を子どもたちから取りあげているともいえる。

 

繰り返し述べてきたように、

子どもの遊びが危険と隣り合わせなのは当然のことで、

危ない経験をしたり、ときに怪我をしたりすることの積み重ねで、

子どもたちは本当の危険を体でわかるようになっていく。

どこまで自分でやれるのかを体で理解する。

その成長の大事な経験を奪ってしまっているのである。

 

もちろん、命に関わるような大きなハザードからは守る義務がある。

けれども、小さな怪我や切り傷は、むしろ繰り返すことで、

子どもたちが本当に大きな危険を目の前にした時に、

身を守る術を身につけてゆく。

特に本書で取りあげたプレーパークと森のようちえんは、一貫して、

「危険性」を大人が事前に子どもから遠ざけないことを重要視していた。

社会はいま、大人のトラブルを避けるために、

あるいは子どもたちに不安な思いをさせないように、

リスクを未然に防ごうとする。

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「知識」は「私たちの心を安定させ、不安を取り払ってくれる」のに対し、

「知恵」は「私たちをぐらつかせ、不安にする」。

知識が買いを絞り込んでいくその場で、

知恵の道は生のプロセスに対して開かれていく。

どちらも必要だが、現代は圧倒的に知識に傾いており、

これほど知識が溢れているのに、

それが知恵に結びつかない時代は歴史になかった。

人類学の仕事は、「科学によって伝えられる知識に、

経験と想像力の溶け合った知恵を調和させること」であり、

知識と知恵のバランスを回復することが重要である。

 

この対比は現代の子どもの遊びにもあてはまるだろう。

大人の(自らの)心の不安を取り除くために、

子どもの生のプロセスを奪い去る。

危険にさらされることを恐れて、未然にリスクを取り除いてしまう。

子どもたちは決められた遊びで遊ばされ、

揉めはじめれば、そのノイズを大人が奇麗に除去していく。

これは遊び場に多種多様な子どもが一緒に居合わせても、

それぞれ孤立している状態と言えないだろうか。

 

医師で臨床心理士の田中茂樹は、子どもに幸せになってほしいがゆえに、

親は自分がよいと思う方向に子どもを導こうとし、

問題点を改善しようと口出しするが、そうしない方が子どもは生き生きと,

自分の力を発揮して自分で幸せになっていくという.

その強さを信じていれば、見守る力が親に育ってゆく。

 

前述の天野秀昭もまた、「善意」で子どもを縛るのではなく、

「快不快」で満ち溢れた世界、情動の世界の中で、

その人の根っこの部分が伸びていくのを「じっと見守ること」が,

豊かな社会を築くのだ、と述べている。

 

いま遊び場で必要とされているのは、

子どもがリスクを目の前にしても大人がじっと待つ力、

子どもの問題解決能力を信じて、ギリギリまで「見守る力」なのである。

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私は、この意見に賛同しています。

 

何度も書きますが、子どもは大人の予備軍ではないのです。

子どもは大人になるために生きているのではなく、

「子どもという時代」を生きる存在なのです。

子どもは自ら育つ力を持っています。

それを、大人が奪ってはいけないのです。

大人の「待つ力」「見守る力」が大事です。

そのためには、大人に心の余裕が必要です。

それを阻んでいるのが、いまの社会です。

だったら、できるところから変えていかないと!