このブログを、書こうと思ったのは、
昨日、学童保育である出来事があったから。
そして、それは今日も起こった。
「子どもには、陰日向がある」
これは、日々、子どもたちと接している私が感じていること。
日向とは、いわゆる「おりこうさん」。
陰とは、一言では言い表せないが、
「おりこうさんの反対」というのが、いちばんしっくりくる。
大人で、陰日向と言えば、あまりいいことにはならない。
そこには、多かれ少なかれ、悪意が存在するから。
しかし、子どもの陰に悪意はない。
特に、私が接している小学校低学年生には、
悪意なんて、かけらもないと言っていい。
人の話を聞かないのではなく、聞けないのだ。
また、性差や個人差もあり、どの子も同じように、
「おりこうさん」にはならないのである。
大人の感覚や良識で、特にこの良識がよくないのだが、
無理に日向の部分を大きくしようとすると、
確かに陰の部分は小さくなったように見える。
しかし、日向は薄っぺらで、逆に、陰は濃く深くなる。
だから、子ども自身が理解して、
自分で日向を大きくしようと思うようになるのを、
すなわち、できるようになるのを、
根気よく接しながら待つしかない。
以上は、学童保育で、日々、子どもたちと接しながら、
深く感じていることである。
さらに、私は子育て関係の本を最近よく読むようになったが、
私が共感している本に共通していることがある。
その陰が、見えているうちはいい。
それが見えなくなったら、あとあと大変なことになるということ。
子どもは子どもらしく、やんちゃに生きてほしい。
そのために、自分にできることは、
学童保育で、陰の部分をしっかり認めてあげること。
もし、家庭や学校で、陰の部分が濃く深くなっているとすれば、
なおさらである。
昨日も今日も、その陰にエネルギーがたまって、
コントロールできなかくなったケースであった。
それでも、小学校低学年の今、爆発して発散できている。
そんな場が、ここにある。
なにせ、いちばん、子どもらしいやんちゃな子なんだから。
昨日今日の出来事は、昨年も夏から秋にかけて起こり、
しばらく影を潜めていた、ちょっと大変な例。
しかし、普段のちょっとしたことにも、陰日向が見える。
すなわち、散らかしっぱなしも、
きびしい大人に接すれば、タガがかかるけど、
そのタガが外れると「おりこうさん」はどこかへ行ってしまう。
それは、あきらかに起こっている。
条件反射的に、名前を呼ばれれば、気がついて動く。
しかし、あくまでも雑であり、何度もやり返しとなる。
そもそも、散らかした後に片づけるという意識がないのだから、
見つからないと片づけない。
つまり、注意されて片づけさせられるけど、
片づける気がないので、言わないと片付かない、
言っても聞くまでに抵抗する、の繰り返し。
それを、がみがみ言っても仕方がないのだが、
やっぱり、あまりにもルーズだとイライラしてしまう。
こっちだって人間なのだから。
そんなとき、大人と子どもというより、
人間と人間として接すればいのだ。
これが、今回の貴重な気づきである。
それは、子どもと接して、大人が成長する伸びしろと思えばいい。
結論は、
- 日々、子どもとの人と人との関わりを満喫すればいい。
- 自分の成長の場と思って、楽しめばいい。
結局は、山本五十六のこの言葉に行き着く。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」
とにかく、10歳くらいまでは、根気よくこれをやる。
これって、子どもだからって簡単じゃない。
そもそも、大人の自分は、ルーズなんだから。
そして、10歳越えてくれば、その続きの、これになるだろう。
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
そんな日の、今日の午後は、月に数度の、
楽しい遊びをクリエイトしてくれる大人のやってくる日。
何事もなかったかのように、
みんな目いっぱい楽しんでいるのを見ながら、
前半のシフトだった私は、その場を後にした。