【学びの散歩道】子どもたちの将来は大丈夫なのだろうか? ああ無常!「ゆとり教育」

『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』(金間大介著 東洋経済新聞社)

から、引き続き学んでいきます。

 

かつて、ゆとり教育というのがありました。

「競争環境を緩和する代わりに、個の経験や体験を重視し、

自ら学び、考える意欲や態度を育む」

というコンセプトです。

 

わたしが、かつて確か「カタリバ」の会に参加したとき、

「どうせ私たちは、ゆとり世代ですから」

と言っていた学生がいたことを思い出しました。

「ゆとり教育」って本当にダメだったのでしょうか?

ゆとり教育に取り入れられた総合教育は、こういうものです。

  • 数人の生徒でグループを作る。
  • メンバーと協力しながらテーマを定め、調査研究を行う。
  • 結果についても、まずはグループ内で議論し、最終的にメンバーの考えをまとめてプレゼンテーションする。
  • このような設計で、個を重視した主体的な学びとチームの一員としての協調性の両方が養われる(はず)。
  • 他者と競争し勝ち上がっていくことより、自分の周りの一人ひとりを慮り、歩調を合わせ、力を合わせてともに課題を乗り越える意識が強化されていく(はず)。

これがゆとり教育の目算でした。

何ら問題ないというか、すばらしい教育方針のように思えます。

 

しかし、このゆとり教育は、学力低下により、さんざんにこき下ろされ、

テストの点数、競争比較重視に戻ってしまったように見えます。

 

ゆとり教育は、「思考力、判断力、表現力、技能」を育むものでしたが、

「関心、意欲、態度」をいかに測定、評価するかが課題とされたのです。

ある子どもの学習意欲が高いかどうかは、現場の先生なら「なんとなく」わかる、

しかし、「なんとなく」では、義務教育の最も重要な公平性が担保できないため、

何らかの客観性が求められたのです。

また「測らなければ伸ばせない」「伸ばしたければまず測れ」

という原則も強力でした。

例えば、授業中に質問した回数、自ら課外授業に取り組んだ回数、

などをカウントし、測定しようというわけです。

 

そこに立ちはだかったのは「協調化路線」です。

「皆で」「チームで」「一体感を持って」「家族のように」

課題を乗り越えるには、自己主張が難しくなります。

この集団的感情が「自らを戒めよ」

「目立つ行為を控えよ」と同町圧力に転移されることになったのです。

個の育成が薄れ、協調性がことさら重要視されたように見えます。

 

また、学校というのは、

「主体的な経験や体験を重視し、自ら学び考える力を養うと同時に、

他者と歩調を合わせて、力を合わせてともに課題を乗り越える場所」

ということのようです。

 

主体的に自ら考えれば、人と違うことをすることになります。

しかし、歩調を合わせるべきなので、場を乱してはいけないのです。

その意味では、ダブルバインドともいえるのではないでしょうか。

 

また、教師の意識はどうだったのでしょうか?

勝手な想像ですが、多くの教師の意識改革が追い付かないまま、

「ゆとり教育」が行われたのではないかとも推測されます。

 

「ゆとり教育」の方針も「学校」の定義も、八方美人のような気がします。

もともと日本人は協調性をことさら重んじ、

日本人のDNAにそれが刷り込まれているようにも思えます。

とすれば、協調性のある態度は、目標にすべきことではなくて、

結果としてみるべきです。

目標の重点は、あくまでも「個」であり、

育成するのは「主体性」だと思います。

まずは、それぞれの個を大切にする、

自分の個を大切にするということは、他の人の個も大切にするということです。

それができれば、自然に協力したり、

力を合わせで成し遂げたりすることができるようになりはずです。

 

「総合教育」の実際を知らないので、何とも言えませんが、

「最終的にメンバーの考えをまとめてプレゼンテーションする」こと、

それ自体は否定はしませんが、無理やりまとめようとすれば無理があります。

「チームとしてはこのようにまとめたけど、このような違う意見もありました」

それでよいのだと思います。

まとめなくてもよいともいえます。

まとめようとしたけど、まとまりませんでした。

このポイントをどうするかが、今後の課題です、でよいでしょう。

 

そして、測定する、評価するということは必要なのでしょうか。

教師だって一人の人間、いろんな考えや主義をもった人がいます。

そんな人が一方的に評価してよいのでしょうか?

私の人生の中でも、

先生や上司の勝手な評価に納得いかなかったことはいっぱいありました。

評価されるということは、自信にもなるけれど、自信喪失にもなります。

「教える」「教えられる」という上下関係が存在するのは避けるべきでしょう。

教師とは教える師と書きますが、

そうではなくてファシリテーターであってほしいです。

 

私は、「ゆとり教育」のことをほとんど知りません。

この本に登場した「ゆとり教育」を推進した人の本を読むことにしました。

このシリーズ、まだまだ長~い、長~い散歩道を行くことになりそうです。

 

写真に意味はありませんが、

リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、

手元にあった写真を適当に貼っています。