『いじめと不登校』(河合隼雄著 新潮文庫)を読みました。
尊敬する人は誰かと問われたら、今の私は、
「河合隼雄さん」と答えるだろうことを改めて確信しました。
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よい子の路線に子どもを乗せてしまうことは、
決してよいことではないということです。
私は、そういう意味のおとなの善意は、ほんとうに恐ろしいと思います。
よいことをするおとなで、いちばん困るのは、反省しないことです。
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日々子どもたちに接していますが、よい子がいると心配になります。
でも、みんな外遊びが好きで、思いっきり遊んでいます。
なにせ、小学校低学年から中学年ですから。
それを見ると心が和みます。
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ものの善意はほんとうに微妙です。
善と思ってやっているうちに悪になっているし、
悪が善を含んでいることもある。
そんなふうに微妙なところがあります。
こういうことがわかってくると、
子どものやっている悪というのは善の芽生えであることが多いと言えます。
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子どもは、悪いことをするもんだと思います。
昔は隠れて、悪いことばかり、
いや、興味のあることを思う存分やっていた気がします。
昔は、親の目の届かない時間や、自然がいっぱいありました。
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子どもというのはすごいなあという気持ちがあったら、
そういうすごい子が学校へ来ないのには何かあるんだろう、
もっとよく見ていたら、何が起こるんだろう、
そういう気持ちを持たれるだけでずいぶん違うと思います。
ともかく、悪者をつくろうとしないことです。
登校拒否の子は悪くないといったら、今度は教師が悪いとか、
親が悪いとかいいますが、そんな悪者はひとつもつくる必要はない。
大事なのは子供の姿をもっと見ようとすることです。
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なるほどそうだなと思います。
悪者をつくっても誰も救われません。
救われるべきは子どもなんですから。
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見守るというのは親のほうが育っていかないといけない。
そして、見守っていると子どもに教えられます。
「ああ、なるほど」とか「やった~!」とか。
そして、こっちがウーンと思うわけです。
だから見守っていると、こっちは成長していかざるをえない。
ところが、教えるほうは成長しなくていいんです。
決まったことをいつも教えて、バカヤローと言っていればいいんだからね。
どうせ向こうは自分よりできないんだから。
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子どもたちから学ぶことは、山のようになります。
実感しています。
対談の司会の大川公一さんの言葉
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私は25年も高校教師をやっていますが、
先生のおっしゃる「黙って考えつつ見守る」ということが、
ようやく出来るようになってきました。
若い教師にも「そこで手を出すな」と言うんですが、
「放っておけないでしょう」と言われる。
たしかに、先生がおっしゃるように、
じっと見ているほうが何倍ものエネルギーを必要とします。
手を出したほうが、
自分の教師としての仕事をやっているという気持ちになります。
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私は、今の仕事で、不本意ながら、手を出さざるを得ない状況があります。
あえて書きませんが、そうせざるを得ない理由がいくつかあるからです。
最後に、対談の相手の芹沢俊介さんのまとめがあって、
わかりやすいので、それを抜粋・引用します。
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①「教えない」こと
「個性を大切にすることが難しいのは、教えられないからです。
教えたら、もう個性じゃなくなるわけだから。(中略)
子どもから出てきたものを援助するわけです」
②「見守る」こと
「待つ」「いじらない」「見守る」における「エネルギーが要る」
という力感の抽象的表現が、
身体感覚を帯びた具体的な形をとったのが「振り回される」である。
③「振り回される」こと
子どもに振り回されるのが、教師の役目、親の役目といいきってもいいだろう。
「振り回される」は、子どもから逃げたり、
子どもの表出を抑え込んだりするのではなく、
主体である子どもの表出を受け止めようとすることにおいて、
はじめて成立する態度であることがわかる。
かくて、「待つ」「いじらない」「は、「何もしない」に進化していく。
④「何もしない」こと
私は「育師」といいました。
ですから教えることはほんとうに少ないです。
勉強しない子がやってきたときに、その子が勉強する、
学ぶような子どもにどう育っていくかということを考えます。
どうするのか。
結局は簡単で、何もしないということです。
でも、これほどむつかしいことはないんです。
その子が何もしないときには、
こっちも「おお、何もせんなあ」とおもって、ボヤっとしていることです。
だいぶ訓練が要ります。
おとなの善意は子どもを傷つけるほんとうに大きな武器の一つです。
(中略)
何かする愛情ではなく、子どものために、
しない愛情を与えなければならないので、
すごく難しくなっています。
「何もしない」の究極は「居る」。
⑤「居る」こと
指導しない、言って聞かさない、何もしない。
しかし、居るということ。
これができたらもう最高なんです。
だから、図書室におられて、なんかしらんけど、
あの先生がおったら行きたくなる、というのが最高なんです。
何かをするのではなく、子どもの前に自分を差し出しておくこと、
差し出しつつそこに居ること。
それが「居る」ということだろう。
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Solが本当にやりたいのは、「何もしない」こと、
そして「ただそこに居る」ということ。
いや「居る」というより、「ただそこにある」ということかもしれません。
きっとその日がやってくると信じています。
「きりがみアート」をやって思います。
Solは、お膳立てをするだけ、そして、ただそこにあるだけ。
そこに、想像力と創造力が育まれる。
それが理想です。