勤務とは、「勤めて務める」と書きます。
教育は、「教え育てる」と書きます。
指導は、「指し示して導く」と書きます。
これらは、子どもの視点から生まれたものではない、
大人目線での、ある意味子どもを見下した言葉のように感じられます。
勉強は、「勉めて強いる」と書きます。
その結果、勉強は、やらされ感満載、
やりたくなくても「勉めて強いる」ことで自分を鼓舞してやります。
学習は、「習って学ぶ」と書きます。
こちらは、study より learning な感じで、自ら学ぶともいえますが、
習い事の多くは、親の意思なのではないでしょうか。
親は、習い事を子どもに提供するのはいいのですが、
それを楽しいと感じ、続けるかどうかの選択は子どもにあるはずです。
親は、期待せず見守ってほしいと思います。
親という字は、木の上に立って見守ると書くのですから。
また、学問というのも、なんだかとても固いイメージがしますが、
「問いを学ぶ」「問うて学ぶ」と書きます。
教育指導すると、教える人に期待が生まれます。
子どもたちに、これができるようになってほしいという思いがあります。
一方、子どもたちのなかには、そこにはあまり関心がなく、
他のことをやりたいと思っている子もいるはずです。
そんな子たちも、敏感なので、
こうしておけば大人は喜ぶということを知っています。
だから、本意ではなくても、大人が喜ぶことをやってしまうのです。
これが続くとどうなるでしょう?
そして大人になったら?
やはり、一律にできるようにするといった期待は手放し、
おとなは、ゆとり、おおらかさを持って、
必要なときに必要な支援をしながら、
子どもたちが自ら学んでいくのをじっと見守ることが必要だと思います。
そもそも、
何のために学校に行くのでしょうか?
何のために勉強するのでしょうか?
『未来の学校のつくりかた』税所篤快著では、
いくつかの子どもののびのび、すくすくを見守る学校が紹介されています。
その一つの「N高」の理事の一人でもある夏野剛さんが、こう言われています。
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「学び方を学んだ」
他人との違いを尊重し、彼らの何気ない言葉や行動に注目し、学びを得ること。
そして、失敗を文字通りの”失敗”と思わず、
”成功への必要な過程”だと考えて、学びを見出すこと。
それは、まさに「生きる力」だ。
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また、長野県上田市の「侍学園」についての記述のなかに、
侍学園とはどんな場所かを表す、こんな言葉があります。
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誰かに与えられる教育ではなく、自ら探し、求め、
生徒とスタッフが共に成長できる「共育」。
何かに頼らず、自ら進むべき道を探すための学び舎。
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こんなことを考えてみると、教育の本来の姿が見えてきます。
「学ぶ」「学び」を大切にしたいです。
「学び方を学ぶ」「問うことを学ぶ」「共育」.....
写真は、特に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。