【学びの時間】「生きる力」を身につける教育⑥ 変わってきた子どもの居場所

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子どもたちは、どうしてメディア機器(スマホ)やゲームに

はまっていくのでしょうか?

 

この本には、どうしてそうなるのかについて、

そうだよねって思える説得力のある形で説明されています。

以下引用です。

 

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「将来が安泰なら勉強しなくてもよい」。

これが残念ながら、現在の日本の「勉強」「学び」の正体のように思います。

本当に学ぶことが楽しいとか、深く考える力をつけるとか、

人生を豊かにする学びを身につける、ということは二の次で、

  • 他人との比較で、高い評価を受けるステータスとして学歴があればいい。

大学は、

  • 授業よりも多様な体験ができて、人間関係が広がる部活やサークル、バイトが大切で、
  • 授業のほうは単位がそろって卒業できればいいし、
  • 資格が取れて就職できればいい。

少なからぬ本音はそこにあり、でもそのステータスのために、

小学生のころから、あるいはすでに就学前から競争を始めているのです。

かくして、子どもたちは、

  • 小さなころから点数をつけられ、
  • 比較され、
  • 「できること」によってほめられ、
  • 「できないこと」は恥ずかしく思うように操作されて育ちます。

できないことや失敗することは、

次に進むためにくり返しが必要な大切なステップのはずなのですが、

その体験はネガティブに受け止められてしまい、たとえ叱られないとしても、

できるように励まされ、試行錯誤の機会は制限されます。

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正直その通りだなと思います。

 

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かつて町の中で自由に遊んでいた子どもたちは、

今は道路の危険と空き地の宅地化、迷惑行為の防止という理由で、

幼・保・こども園、放課後子ども教室や学童放課後児童クラブといういわば、

ゲーテッド・コミュニティ

(門によって外部と隔てられ、中にいる特権階級の安全を確保する生活の場)

に囲い込まれました。

登録して時間で管理され、安全な室内にとどまって遊び、

帰りは商店街や近隣地域の多様な人たちとのおしゃゃべりも道草もせず、

一目散に帰宅することを余儀なくされます。

 

遊びまでも管理されるようになった子どもたちは、モバイル機器のなかに、

大人の目の届かない、自由で主体的になれて、

他者と交流できる居場所を見つけ、

その中で探求心を満たし、達成感を得ています。

そこには、依存の問題が隠れているのですが、

その危険についての十分な情報は子どもたちに伝えられていません。

 

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自由な遊びを制限されて育った大人たちのなかに、

教師であろうと親であろうと、

自分で主体的に遊ぶことを体験していないために

遊び方がわからない人たちがいるようなのです。

当然、子どもたちに主体的に遊ぶ楽しさを伝えたり、

遊んでいるところを見せてモデルを示したりすることが難しくなっています。

 

そうした大人たちに囲まれて育ったこともたちは、

  • サッカーのようにコーチがいてルールがある中でプレイすること、
  • 有料の遊園地のように動く装置に乗ったり、
  • 仕掛けを楽しんだりして遊ぶこと、
  • 遊び方が決められた安全な遊具のある公園で約束を守って遊ぶこと、
  • スマホゲームのようにあらかじめ誰かがプログラムした遊びに乗っかって遊ぶこと、
  • 家のなかで静かに少人数で遊ぶことはできても、

かつての子どもたちのように、特に遊具も設備もない戸外で

大勢いの子どもたちの中に自分の居場所を見つけて、

工夫して遊ぶことは難易度が高すぎるようです。

そもそも街の公園はきれいに整えられた憩いの場になっていて、

  • 子どもたちが何かを壊したり、
  • 植物を荒らしたり、
  • 大声を上げたりしないように、

あらかじめ禁止看板が立っているところが多く、

道理をわきまえるまでに育っていない子どもたちが

夢中になって遊べるような条件が整ってないこともあるでしょう。

「やらかしてはいけない」という制約の華夏では、

ゲーム機やスマホに向かって、

その中で興奮を得て遊んでいるのが一番安全です。

子どもたちがゲームに依存していくのは必然でしょう。

 

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自分で養育環境をつくることも情報収集することもできない子どもたちは、

育ててくれる人の価値観を信じて生きていくしかありません。

  • きちんとしなさい。
  • 学校に入りなさい。
  • 就職しなさい。
  • スポーツができなければいけません。
  • 習い事に通ってダンスだって踊れるようになりましょう

と言われますが、誰もがすべてをできるわけではありません。

少なくない子どもたちは、

自分に示されている状況に割り切れない気持ちを抱えたまま、

大人社会のひずみを反映するようないじめに巻き込まれ、不登校、うつ、

引きこもり、精神障害、非行、そして自殺に向かって行ってしまうのです。

メディアに依存してしまうのは、そこが唯一、逃げ込める場所だからなのです。

 

かつて悩める子だった大人たちは、このような状況だからこそ、

逆説的に、この社会を生き抜いていくための少しでも安全なレールに

自分の子どもたちを乗せてあげたいと思うでしょう。

悪循環が起きています。

子どもたちは大人たちによって決められた予定調和の世界を走って、

大人の想定範囲内で自分の希望を述べ、

大人の意志によって育てられていきます。

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昔、いやそんな昔ではなく、私が小さい頃は、

特に田舎育ちだったこともあり、

親の目の届かないところがたくさんありました。

 

今の子どもたちを見ていると、ずっと親の目の届くところにいる、

そんな感じがします。

私自身、子どもの頃のときのことはあまり覚えていませんが、

親の知らない時間をたくさん持っていたと思います。

 

私は、学窓クラブや放課後子ども教室に行き、

子どもたちがやりたいことをやれるように考えてきて、

それができる環境に恵まれました。

しかし、その多くの場所では、

子どもの自由はほとんどないという状況も見てきています。

 

私には何もできませんが、この状況をすごく悲しいと思っています。

そして、同じ思いを持った人とのつながりもできてきて、

子どもたちのための教育を実現するための活動も動いています。

焦らずそれをやっていくほかありません。

 

さらにえば、子どもたちの問題は、親の問題でもあるのです。

この辺りも、同じ思いの仲間を増やしていく以外に、近道はなさそうです。

 

つづく