なぜ、才能ということについて書こうと思ったのか?
それは、学童保育と放課後子ども教室を掛け持ちする中で、
その両方で、子どもたちの驚くほどの才能を目の当たりにしたからです。
それは今に始まったことではありません。
これまで、子どもたちはすごいなと何度も感じてきました。
私が主に接してきているのは、小1~3年生です。
この子たちの可能性や、やりたいことをやる力はすごいなと感じる一方、
小学校高学年、中学生と年齢を重ねるごとに、
どうもそれが薄れていくようなのです。
学校は、子どもの才能が伸びうるのを妨げるところ、
私にはそう思えます。
才能を伸ばすこと以上に大切なことはないと思えるのですが、
そうなっていないのは、
- 今の世の中のしくみ
- それを肯定する、あるいは流される世間一般の認識
- 特に、学校というものに偏重した教育システム
の弊害ではないかと思えます。
それは、私自身が感じていることでもあります。
- 自分の才能って、なんだろう?
- 自分がやりたいことって何だろう?
- 自分が好きなことって何だろう?
それを知らずに、何十年も生きてきたように思えます。
そこそこ勉強もできたことで、それなりのエリートコースを歩んできました。
そこに何の疑問もなく。
中学高校と部活で卓球をやり、大学ではほどんど何もせず、
会社に入っては、誘われるまま、野球・サッカー・スキー・ゴルフなどをやり、
特にゴルフは、何度も何度もやりました。
しかし、それは、私のがやりたかったこととは思えないのです。
今から思うと、仕事も含めてそう思われます。
そして今、
- こうやってブログを書き
- 学童保育では主に工作をやり
- 放課後子ども教室では主に絵を描き
- そして、ドリマ先生もやっています。
それは、私のやりたいことであり、好きなことだと言えます。
子どもたちと触れ合うことで、それが見えてきた気がします。
いや、何をやっているかではなく、それは手段であって、
私の才能は、
- 子どもたちを信じ
- 成長を見守ることができる
ということなのかもしれません。
目に見えることだけが才能ではないと思いますが、
目に見えるとすごいインパクトがあります。
その例が、写真の絵です。
小学校2年生の絵です。
カラフルな2枚の漫画の絵は、放課後子ども教室の小2の女の子の絵です。
なにも見ずに、スラスラ描いて、色の塗り方も巧みです。
絵だけ見ると、子どもが描いたなんて思えないほどの玄人はだしです。
絵がちょっと暗いのは、鬼滅の刃のようなものの影響と、
私が知る限りの家庭の事情によるものだと推測されます。
下の2枚は、学童保育の別々の小2の男の子たちの絵です。
ミッキーマウスは、画面を見て描きました。
私だと、鉛筆で薄く書いて形をつくり、それから清書するのですが、
一本の線で、見事にバランスをとって、さっと描くのです。
形もバランスも整っています。
さらに、いろんな独創的なものを夢中に描きます。
もう一つの縦長の方は、工作ですごい才能だと感じている子の絵です。
いろんなアイデアを追加していきます。
この子たち、いま夢中に描いているその気持ちを、ずっと持ち続けてほしい。
そう願っています。
絵はそんなに得意ではない子、描きたがらない子もいます。
それはそれで、別のところに才能はあるのです。
なにも才能は、勉強や芸術的である必要はないでしょう。
簡単に言ってしまえば、一人ひとりの「いいところ」なんです。
一人ひとりが、自分のいいところを見つけて、
それを伸ばしていけるようにするのが、大人の役目だと思っています。
さらに言うと、
- 才能とは、自分のやりたいこと、好きなことであるともいえます。
- 才能は、とかくどちらが優れている?とやってしまいがちですが、人と比べるものではないと思います。
- 才能は、自分の長所や得意なこと好きなことを、信じてやる力だと思います。
自分が、自分の力を信じられるということは、
親や周りの大人が、その子の可能性を信じているということでもあります。