『「里」という思想』(内山節著 新潮選書)を
ときどき思い出したように読んでいます。
「自然とは何なのだろうか」という問いに対して、著者は哲学していきます。
語られた内容はとても興味深いものがあるので、以下に整理してみます。
-----------------------------------------------------
<自然性の衰弱>
ヨーロッパの伝統的な考え方にしたがえば、自然には2つの意味がある。
- 森、川、海、野生生物などによってつくられている世界
- 生き物にそなわっている自然の性質、人間が持っている自然の性質=自然性も含まれる。
自然の世界との間に交渉を持つことによって、
人間をふくむ生き物たちがもつ自然性は、たえず再創造される、
日々の自然との交渉をとおして再創造しなければ、衰弱してしまう。
西洋の自然主義は、人間に万物の支配者たる絶対的な地位を与えてしまった。
その結果、人間の進歩にとって不都合な自然が破壊されたばかりではなく、
人間の知性を絶対視するあまり、
人々は知性をとおしてしか他者と交わることができなくなった。
それが、自然との深い交渉を不可能にさせ、人間の自然性を衰弱させていった。
<何事も理由付け>
20世紀に世界は平等にむかうどころか、
いまもなお(21世紀の入り口)覇権争いがつづいている。
社会は、経済の発展のためには手段を選ばなくなった。
問題だらけの渦中にいる人たちは、それを肯定する理由を持っていた。
- 個人には戦争に参加する理由がある。
- ユダヤ人の虐殺によって民族浄化をすすめる理由がある。
- 経済的な覇権争いに加わっていく理由があった。
- 自然の破壊につながることがわかっていても、個人には開発をすすめる理由がある。
<人間の破壊を守る保護膜>
近代的な個人は、何かを失っている。
人間の知性を絶対視し、人間を自然の支配者にしてしまったとき、
そこに生まれた個人は、狂暴なエゴイストでしかなかったのかもしれない。
人間が破壊されずに生きるためには、
人間を包む保護膜のようなものが必要かもしれない。
その保護膜こそが「自然」なのかもしれない。
<さまざまな受け止め方>
世界中に同じ問題が発生している。
環境問題、治安の悪化、さまざまな社会不安、学校や家庭の破綻、
グローバル化していく経済をめぐる議論、.....
世界は次第に違いをなくしている。
その問題の人びとの受け止め方は、その国、その地域によってそれぞれ違う。
自然保護は世界中で議論されている。自然保護の受け止め方はさまざま。
- 北米では、自然保護は原生的自然の保全がその議論の中心。
- ヨーロッパでは、人間の暮らす村々で野生生物が生存できるようにすることが中心。
- 日本では、自然とともに暮らせる人間のあり方が中心。
「アマミノクロウサギ裁判」は、
アマミノクロウサギなどの動物を原告に加えた裁判であり、
アメリカの自然保護団体のやり方を真似たものであった。
しかし、そのとらえ方は違っていた。
- アメリカでは、自然の生物が生きる権利=自然権が議論の中心。
- 奄美では、アマミノクロウサギとともに生きる人間のあり方が訴訟のポイントであった。
<日本の思想>
日本では、自然と人間は別のものではなく、
同じ時空のなかでともに生きていると考えられてきた。
野生生物の権利でもなく、人間の権利でもなく、ともに生きる世界。
自然に人間が支えられ、人間に自然が支えられる世界。
自然保護の考え方が広がると、自然と人間の共同性ばかりでなく、
人間と人間の共同性はいかにあるべきかも考えるようになった。
自分を支えてくれたものに応えていくのが人間らしさだと
考える伝統的な精神が蘇った。
自然が私たちを支えてくれる、他の人びとも私を支えてくれている。
それに応えようとすることが人間らしさである。
私たちの精神風土では、自分の例に主体があるのではなく、
支えてくれる自然や人々こそが創造者であり、
それに応えようとするとき主体的なのである。
-------------------------------------------------------------
私には、
「野生生物の権利でもなく、人間の権利でもなく、ともに生きる世界。
自然に人間が支えられ、人間に自然が支えられる世界」
この言葉が、すごく印象に残りました。
まさに、「里山」のありかただと思います。
人間は自然に抱かれている、それだけでなく、自然を支えているんです。
それが、著者の言う人間の自然性の根底にあるものだと思います。
上記の自然保護への考え方をみても、
- 欧米では、人間が上で、動物は守る対象
- 日本では、人間と動物は対等で、共生する対象
だということがわかります。
「自分を支えてくれたものに応えていくのが人間らしさ」であるとすれば、
人間が人間らしく生きることができる場所が、里山なのだと言えるでしょう。
都会とは、空気感が違います。
都会は、人間の知性とおごりと欲の塊ではないでしょうか。
そこには、人間を心身ともに破壊する空気が充満しているのです。
悪い空気に満たされ、人間が汚染されているともいえるでしょう。
世の中で起こっている、大小さまざまな醜い人間の仕業は、
里山という人間と自然が共存する場所においては、
あるいは人間の心が里山であれば、起こりえないのではないでしょうか。
里山には、そんな空気があると思います。
写真に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。