「いのちの場所」①では、” 他者のとの関係の中に、自分の生きる場がある "
という、空間的な「いのち」の場所を考えました。
では、「いのち」の場所は、時間的に見るとどうなるのでしょうか?
『いのちの場所』内山節著には、このようにも書かれています。
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過去は現在の土台として、現在のなかにある。
未来もまた現在がつくり出す未来である。
どちらもが、現在形のなかにあるといってもよい。
つまり人間には現在という刹那しか存在しない。
子どもは将来自分が大人になって仕事をしたり、
家族を持ったりするだろうことは理性的に知っていても、
その瞬間の自分としては、あたかもその時間が永遠につづくかのごとく
その刹那のなかに身をおいている。
遊びに打ち込んでいるときは、過去も未来もないかのごとく、
遊びのなかにすべての時間が存在しているのである。
過去も未来も、現在という刹那のなかにある。
この視点に立ったなら、過去もまた変化しないものではなく、
現在との関係のなかで変容するし、
未来もまた現在との関係によって異なったものになっていく。
過去や現在が発見した過去である以上、
現在のあり方が発現された過去を変容させるのである。
この立場をとれば、
「いのち」はつねに現在という刹那のなかにしかないということになる。
ところが、現代人たちは、
「生きる」ということを考えたときには未来を考える。
そして、その未来は不安に満ちている。
孤独な未来かもしれないし、
病気になった未来や生活が破綻した未来かもしれない。
そのことを真剣になって考えてしまえば、
自分でどれほど完璧に自己の未来像を準備しても、
インフレや社会の破綻、戦争と言った出来事が、
完璧な準備を破綻させていく可能性がある。
過去、現在、未来へ向かう時の矢のなかでは、
真剣になればなるほど未来は不安に満ちている。
「いのち」は現在のなかには存在の場所を持っているのに、
「生きる」意味は不確定な未来に向けられている。
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「生きる」を考えることは、自分の将来を考えること、
なるほどなと思えます。
そこに焦点を当てれば当てるだけ、不安に包まれます。
その不安を解消するために、早い段階、
即ち子どものころから、未来に備えようとがんばることになるのです。
しかし、「生きる」が「いのち」の場と同じであれば、
それは「いまここ」です。
「ここいまタウン」は、場を優先するので、
「いまここ」を「ここいま」に読み替えています。
過去があって、今があって、未来があるという、
時系列の直線的な感覚でいると、
過去を悔やみ、未来に不安を感じるがゆえに、今を憂うことになります。
しかし、現実は「過去も未来も、現在という刹那のなかにある」わけです。
過去の事実は変えられないけど、解釈は変えられます。
未来に起こるもとは、何もわかりません。
今の延長線上にあるのが、未来です。
今に不満足であれば、未来に満足を得られるでしょうか?
今に満足できれば、未来もそうなると思えませんか?
Sol自身は、それを今現在進行形で体感中です。
現代の生きづらさは、将来の不安によるものではないかと思います。
確かに、未来のことはわかりません。
不安でも、楽観でも困るのですが、ではどうしたらいいのでしょうか?
「いのち」はいまこの瞬間にある、
そう思って、いまを生きるほかなさそうです。
「ここいまタウン」は、過去を悔やみ、未来に不安をもつことなく、
ただ、いまをこころ豊かに生きることのできるコミュニティ
でありたいと思います。
写真は、特に意味がありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。