いのちの場所 ②

  「いのちの場所」①では、” 他者のとの関係の中に、自分の生きる場がある "

という、空間的な「いのち」の場所を考えました。

では、「いのち」の場所は、時間的に見るとどうなるのでしょうか?

 

『いのちの場所』内山節著には、このようにも書かれています。

 

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過去は現在の土台として、現在のなかにある。

未来もまた現在がつくり出す未来である。

どちらもが、現在形のなかにあるといってもよい。

つまり人間には現在という刹那しか存在しない。

子どもは将来自分が大人になって仕事をしたり、

家族を持ったりするだろうことは理性的に知っていても、

その瞬間の自分としては、あたかもその時間が永遠につづくかのごとく

その刹那のなかに身をおいている。

遊びに打ち込んでいるときは、過去も未来もないかのごとく、

遊びのなかにすべての時間が存在しているのである。

 

過去も未来も、現在という刹那のなかにある。

この視点に立ったなら、過去もまた変化しないものではなく、

現在との関係のなかで変容するし、

未来もまた現在との関係によって異なったものになっていく。

過去や現在が発見した過去である以上、

現在のあり方が発現された過去を変容させるのである。

この立場をとれば、

「いのち」はつねに現在という刹那のなかにしかないということになる。

 

ところが、現代人たちは、

「生きる」ということを考えたときには未来を考える。

そして、その未来は不安に満ちている。

孤独な未来かもしれないし、

病気になった未来や生活が破綻した未来かもしれない。

そのことを真剣になって考えてしまえば、

自分でどれほど完璧に自己の未来像を準備しても、

インフレや社会の破綻、戦争と言った出来事が、

完璧な準備を破綻させていく可能性がある。

 

過去、現在、未来へ向かう時の矢のなかでは、

真剣になればなるほど未来は不安に満ちている。

「いのち」は現在のなかには存在の場所を持っているのに、

「生きる」意味は不確定な未来に向けられている。

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「生きる」を考えることは、自分の将来を考えること、

なるほどなと思えます。

そこに焦点を当てれば当てるだけ、不安に包まれます。

その不安を解消するために、早い段階、

即ち子どものころから、未来に備えようとがんばることになるのです。

 

しかし、「生きる」が「いのち」の場と同じであれば、

それは「いまここ」です。

 

「ここいまタウン」は、場を優先するので、

「いまここ」を「ここいま」に読み替えています。

 

過去があって、今があって、未来があるという、

時系列の直線的な感覚でいると、

過去を悔やみ、未来に不安を感じるがゆえに、今を憂うことになります。

 

しかし、現実は「過去も未来も、現在という刹那のなかにある」わけです。

過去の事実は変えられないけど、解釈は変えられます。

未来に起こるもとは、何もわかりません。

今の延長線上にあるのが、未来です。

今に不満足であれば、未来に満足を得られるでしょうか?

今に満足できれば、未来もそうなると思えませんか?

 

Sol自身は、それを今現在進行形で体感中です。

 

現代の生きづらさは、将来の不安によるものではないかと思います。

確かに、未来のことはわかりません。

不安でも、楽観でも困るのですが、ではどうしたらいいのでしょうか?

 

「いのち」はいまこの瞬間にある、

そう思って、いまを生きるほかなさそうです。

 

「ここいまタウン」は、過去を悔やみ、未来に不安をもつことなく、

ただ、いまをこころ豊かに生きることのできるコミュニティ

でありたいと思います。

 

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写真は、特に意味がありませんが、

リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、

散歩中に撮った写真を適当に貼っています。