『いのちの場所』内山節著を読んで、ある言葉に接しました。
そして、孫の菫の笑顔と視線を見ていて、
「ここいまタウン」につながるものを感じたのです。
この本に書かれていたのは、こういうことです
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人間は自分の「いのち」は自分自身の身体のなかにあると感じる。
もしも「いのち」が機械的な機能にすぎないのなら、
つまり心臓が動き、血液が流れ、と言ったことにすぎないのなら、
「いのち」は自分の身体とともにある。
しかし、人にとって「いのち」とは、
生きている場のなかに成立しているものである。
「いのち」を成立させる場があって、
はじめて「いのち」は存在することができる。
そして、この場をつくりだしているものが関係である。
私たちは、他者のとの関係の中に、自分の生きる場を、
「いのち」が存在する場を成立させている。
だが、現代は「いのち」をも固有のもの、
それそれの個体性にもとづくものとする社会を成立させている。
それが「いのち」の孤独を生み出し、
生の不安と死の恐怖を蔓延させることになった。
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特に確固としたものがあったわけではなく、
感覚的に「いいな」と思ったので、
昨日 「いのち」はどこにあるのか? を書きました。
「いのち」を成立させる場があって、
はじめて「いのち」は存在することができる。
この言葉の意味はとても大きいと思います。
菫の笑顔は、菫だけでつくられたものではなく、
菫だけにあるものでもないのです。
両親との関係性のなかに、
あのかわいらしい表情や動作が生まれているのです。
世の中には、この菫のように「いのち」を輝かせている
赤ちゃんばかりがいるわけではないでしょう。
『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の本』
ヤニス・バルファキス著の第一章は、冒頭のこの言葉で始まっています。
「赤ちゃんはみんな裸で生まれてくる。
でも、高級ブティックで買ったステキな肌着を着せられてもらう
赤ちゃんがいる一方で、多くの赤ちゃんはボロを着せられている。」
経済のお話なので、高級かボロかになってはいるものの、
これは、愛情のかけられ方によっても、赤ちゃんの「いのち」は、
違ったものになるということも意味しています。
「ボロは着てても心は錦」ということもありますが、
「こころ」「いのち」のあり方の違いは、人生全体に関わります。
人にとって「いのち」とは、
生きている場のなかに成立しているものだから、
菫の「いのち」の場は、その親との関係性の場のなかにあり、
他の赤ちゃんの「いのち」は、その親との関係性のばにあるのです。
もしほかの子の「いのち」が、現代社会の歪みのなかで、
「いのち」が固有の存在として扱われ、
「いのち」の孤独化を生み出すことになっているとすれば、
それはとても悲しいことです。
だから、「ここいまタウン」は、赤ちゃんだけでなく、
すべての人の「いのち」が輝く、
豊かな関係性が育まれた場であってほしいと思います。