いのちの場所 ①

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『いのちの場所』内山節著を読んで、ある言葉に接しました。

そして、孫の菫の笑顔と視線を見ていて、

「ここいまタウン」につながるものを感じたのです。

 

 

この本に書かれていたのは、こういうことです

 

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人間は自分の「いのち」は自分自身の身体のなかにあると感じる。

もしも「いのち」が機械的な機能にすぎないのなら、

つまり心臓が動き、血液が流れ、と言ったことにすぎないのなら、

「いのち」は自分の身体とともにある。

 

しかし、人にとって「いのち」とは、

生きている場のなかに成立しているものである。

「いのち」を成立させる場があって、

はじめて「いのち」は存在することができる。

 

そして、この場をつくりだしているものが関係である。

私たちは、他者のとの関係の中に、自分の生きる場を、

「いのち」が存在する場を成立させている。

 

だが、現代は「いのち」をも固有のもの、

それそれの個体性にもとづくものとする社会を成立させている。

それが「いのち」の孤独を生み出し、

生の不安と死の恐怖を蔓延させることになった。

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特に確固としたものがあったわけではなく、

感覚的に「いいな」と思ったので、

昨日 「いのち」はどこにあるのか? を書きました。

 

「いのち」を成立させる場があって、

はじめて「いのち」は存在することができる。

 

この言葉の意味はとても大きいと思います。

 

菫の笑顔は、菫だけでつくられたものではなく、

菫だけにあるものでもないのです。

両親との関係性のなかに、

あのかわいらしい表情や動作が生まれているのです。

 

世の中には、この菫のように「いのち」を輝かせている

赤ちゃんばかりがいるわけではないでしょう。

 

『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の本』

ヤニス・バルファキス著の第一章は、冒頭のこの言葉で始まっています。

「赤ちゃんはみんな裸で生まれてくる。

でも、高級ブティックで買ったステキな肌着を着せられてもらう

赤ちゃんがいる一方で、多くの赤ちゃんはボロを着せられている。」

 

経済のお話なので、高級かボロかになってはいるものの、

これは、愛情のかけられ方によっても、赤ちゃんの「いのち」は、

違ったものになるということも意味しています。

 

「ボロは着てても心は錦」ということもありますが、

「こころ」「いのち」のあり方の違いは、人生全体に関わります。

 

人にとって「いのち」とは、

生きている場のなかに成立しているものだから、

菫の「いのち」の場は、その親との関係性の場のなかにあり、

他の赤ちゃんの「いのち」は、その親との関係性のばにあるのです。

 

もしほかの子の「いのち」が、現代社会の歪みのなかで、

「いのち」が固有の存在として扱われ、

「いのち」の孤独化を生み出すことになっているとすれば、

それはとても悲しいことです。

 

だから、「ここいまタウン」は、赤ちゃんだけでなく、

すべての人の「いのち」が輝く、

豊かな関係性が育まれた場であってほしいと思います。