『家族という意思』(芹沢俊介著 岩波新書)より
著者は、「家庭」「家族」について、子どもの感覚と、
大人のとらえ方が違うのではないか、それが東日本大震災を経て、
自分の中で明らかになってきたと言われています。
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子どもは、その誕生後に一定期間、
ほかならぬ自分という存在を心と身体を差し出し、
まるごと受けとめてくれる特定の特別な誰かを必須としている。
そのような受けとめ手なくして、
自分といういのちの安定的な存続はおぼつかないことを、
ほかならぬ、そのいのちのレベルにおいて知っている。
したがって子どもは、自分を受けとめてくれる存在を求める。
自分が受けとめられているのだという感覚。
それを「受けとめられ体験」と呼べば、
そのような受けとめられ体験を提供してくれる受けとめ手を、
まっさきに自分の愛着の対象とする。
そうした最初の愛着の対象が子どもにとって、
「原初の家族」といってもいいのかもしれない。
このことは、そうした言葉は使われないけれど、
本質的な意味で「家庭」とみなしているということを告げている。
いうまでもなく、子どもが望む最良の受けとめ手が、
母親であり、父親がそれに続くのである。
- 子どもの家族観は、血縁関係が関与していない。
- 子どもの考える家庭は、自分を受けとめてくれる受けとめ手と一緒にいるということ。
- 子どもは受けとめ手が一緒にいること以外に何ももとめないということ。
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これに対して、大人の家族観は違っています。
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大人の家族観は、血縁と実体としての我が家である。
血縁は、他と区別される関係。
我が家は、他の家庭と実質を異にする我が家という空間。
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だから、被災地の仮設住宅は、大人にとっては家庭とは感じられない、
だけど、子どもにとっては、自分を受けとめてくれる親といる限り、
「家庭」そのものだというわけです。
最近、いわゆる虐待のニュースは絶えず、
それも、直近では、考えられないような事件の報道がありました。
誰が悪いということは一概には言えません。
かつては、地域の人たちみんなで、子育てしていた感覚があります。
子育ては、社会に開かれていました。
しかし、今は、核家族で、子育ての負担はその親にのしかかっています。
【学びの時間】「居る」という存在 - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)
このなかに、
「ともかく、悪者をつくろうとしないことです」
という言葉があります。
社会として、地域として、そして自分に何ができるのか、
そんなことを考え続けていくほかありません。
写真に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。