『子どものリアリティ 学校のバーチャリティ』(浜田寿美男著 岩波書店)
からの学びを続けます。
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むかし学校は、地域における知的権威であったが、
子どもたちの人生を左右する制度としての権力性は小さかった。
そこは学校の権威のゆえに、
上から下への知の流れが違和感なく受け入れられる。
教師と子どもが知的な権威を尊重する共通の土俵のうえにあって、
子どもたちは教師を上に見ることに何ら疑問を感じることはなかったし、
教師が多少横暴で抑圧的であっても、
子どもたちは、不満ながら、それを受け入れた。
(中略)
いま学校は、知的権威を失ったにもかかわらず、
子どもたちを縛るその権力性は逆に増している。
子どもたちの目には、学校でしか学べないことが見えないにもかかわらず、
子どもたちが学校へ行かないことを選ぶことは許されない。
現に学校という制度のはしごをはみ出したのでは、自分の将来が見えない。
子どもたちはそのことを肌身で感じている。
それに身の回りのほとんどの子どもたちが学校へ行くなかで、
自分ひとり不登校を選ぶとなれば、
周囲からの孤立は覚悟しなければならない。
それにはよほどの勇気がいる。
高校進学率は100%に近くなって、
しかも、その学校が偏差値でほとんどスライス上に輪切りにされ、
子どもたちはどの高校に入るかで、自分のランクが決められ、
将来が左右されるかのように感じてしまう。
そうした気分のなか、
子どもたちは学校で学んだ実質的な意味内容いかんではなく、
もっぱらその結果としての成績評価を気にする。
誰かが直接的に権力をふるって、子どもたちを強引に登校させ、
学校に縛り付けているのではない。
にもかかわらず、子どもたちは、そこからドロップアウトすることができない。
そうした隠然たる力が、子どもたちのまわりに働いている。
それは、戦前戦中の権力装置のように、
子どもたちを直接に国家主義のなかに巻き込むではなく、
ただ制度の網の目を通して隠然と子どもたちの不安を操作するのである。
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子どもたちは、しかれたレールの上を走らされている、
そんな感じがします。
それは今に限りません。
私自身がまさにそうだからです。
走らされたとは思っていませんが、自分で走ってきたと思います。
それに気づいたのが、50歳を過ぎてからでした。
幸いにも、ある意味順風満帆でしたから、
大きな問題もなく、そこまで来れました。
そして、あるつまづきから気づきを得て、
走ってきたレールから降りる決意ができました。
私は、ラッキーな人生を生きている。
いまは、そう感じられて、本当にありがたいです。

写真に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
手元にあった写真を適当に貼っています。