息抜きの散歩中に「視覚」に入ったものたちを思う

この週末は、土曜日に多摩丘陵を歩いて銭湯に行った。

日曜日は静かに家にいて、やる必要のあるものをひとつずつやっていった。

それでも、ずっと家にこもっていることはできない性分なので、

午後、息抜きに近くを歩いてみることにした。

 

ただ歩く、気の向くままに歩く。

ゆっくり歩いて、目に入ったものにシャッターを切る。

けっして、すごいとか、みごとだなというものはないけれど、

そこここにあるのは、個性的な小さないのちたち。

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あまり人は歩いていないが、公園には家族連れがたくさんいて、

多くの小さな子どもたちが無邪気に遊んでいた。

からだ中で、今を満喫している人たちが多くいた。

 

さらに歩いていくと、スマホ歩きの若者が前を歩いていた。

まわりを全く見ていない。

歩いているというより、足は無意識に動いていて移動はしているが、

意識はスマホの画面に集中している。

姿勢が悪く、下を向いて、止まりそうなだらだらした歩き。

時々立ち止まって、なにやら操作している。

 

こんなにゆったり歩ける道を、どうしてスマホのながら歩きをするのだろう?

 

信号機のある交差点に近づくと、交差点であることに気がついたようだ。

急に顔を上げて、走る。

もう黄色から赤に変わっているのに、走って渡っていった。

なんだか、とってもせせこましい。

それまで、スマホに心奪われて、時間の間隔を忘れていた人が、

なぜ、長くても1分も待たせない信号なのに、そんなに焦って行くの?

 

まわりを見ながら歩くことを楽しめば、

こんなにステキな小さないのちが、道端にある。

いのちを観なくても、街の景観や空、風や音、匂いなどなど、

五感で感じられるものがある。

 

頭で考えず、五感で感じよう!

目で見たものだけで判断しないで、もっと五感で感じてみよう!

などとよく言われる。

しかし、スマホの普及によって、

多くの人々がデバイスやコンテンツへの虜状態になっているいま、

五感の中では一番使いやすい視覚ですら、使われなくなってしまったようだ。

そんなことを感じてしまう。

 

電車の中でスマホを操作する人、スマホ歩きの人などを観ていると、

けっこうみっともない姿勢・動作をしているんだよね。

人は、まわりの目が気にならなくなったのだろうか?

人は、まわりの人のことが気にならなくなったのだろうか?

 

もっと、ゆったりいこうよ。

もっと、まわりをよく見てみようよ。

もっと自分のこと気にしてみようよ。

スマホを置いて、ゆっくり歩くと、心が豊かになるよ。

 

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