ここしばらく、あったものがない生活を送っています。
- 収入がない
- その日にやるべきことがない
- 通うところがない
- 定期券がない
特に予定のない今日のような日には、ある種の空虚感が漂う感じです。
- これでいいんだろうか?
- これからどうなっていくんだろうか?
そんな漠然とした不安感もあります。
一方、これらがない代わりにあるものがあります。
それは、ふんだんにある時間です。その時間を利用して、やりたいことだけをやっています。
- 母のこと、田舎の家のこと(あと少し残っている)
- 毎日週間になっていること(いくつもあります)
- 好きな自然を歩く散歩
- 自然の小さな命を撮影する
- さらのそれを水彩画に描くを始めたばかり
- 若干の家事(料理や片づけ)
- SOL Cafe
- NPOや仲間との活動
今日も「ない」を感じ、「ある」を味わっています。
- 「ない」については、ライスワーク的に我慢して働きたくない気持ちを大事にしながらも、求人への応募をし始めたので、それを継続していくほかありません。
- 「ある」については、今ある時間をどう有意義に使うか、カフェで考えても出てきません。
そういう時は、歩いてみます。今日も、近くを歩きました。
歩くと、草花や虫たちが見えてきます。愛用のミラーレス一眼レフを持っていなかったので、iPadで写真を撮りました。それでも十分きれい(最初の2枚のコラージュ)ではあるのですが、かなり物足りなさを感じました。なので一旦家に帰り、一眼レフを持って、もう一度同じコースを歩いてみました。
やはりいいカメラ(レンズ)で写真を撮ると、見え方が違います(あとの2枚のコラージュ)。被写体や撮った写真への愛着も違います。
いい道具を使うと、小さな命の一つ一つに、焦点が当たります。これまでは、それで終わりでした。きれいに撮れたなということだけでした。
最近、そこからもっと先に行く必要があるし、行きたいという想いが出てきました。先日水彩画を始めたのも、その想いからです。
そして今日は、撮った花の名前を調べてみました。ヒメジョオン、イモカタバミ、オオアマナ、ツルニチソウ、クレマチス、ハマヒルガオなどです。
そして思い出したことがあります。
小学生のころ、チョウやかカブトムシやクワガタムシなどを、よく山に採りに行っていました。チョウの標本もつくり、夏休みにはチョウの生態の自由研究をして、毎年研究発表もしました。小学校、市の発表会を経て、県の発表会にも出たことがあります。
それが本当に好きだったのかというと、よくわかりません。やって成果が出て期待されるので、やっていたのかもしれません。標本にするためには、チョウを捕まえて胸をつぶして殺すわけですが、それが最後まで嫌だったことは憶えています。
ちなみに、今日iPadで撮ったチョウの名はダイミョウセセリです。すぐには思い出せなくて、調べてみて、ああそうだったと思いだしましたが、当時はけっこう多くのチョウの名前を知っていました。
植物や虫を写真に撮る、絵を描く、そして名前を知る。そのために殺生は不要です。
この辺りを深めていく(例えば自前の写真図鑑をつくる)と、時間はより有意義になり、自分のあり方も磨かれていくのだろうと思えます。そんなことができれば、人(子どもたち)と共有できて、それも楽しみとなるでしょう。
これまでの人生の中で、こんなこと(人と見える形で共有できるもの)が欠けていたのだと感じました。Facebookに毎日のように投稿するのも、自分にも人と見える形で共有できるものがあるということを、無意識が示そうとしているのかもしれません。
何かの形を作っていくことの大切さを感じ、その関連でもう一つやりたいと思ったことがあります。そんな実りのある、今日の時間となったことに感謝しています。