
以前に読んだ本の中で触れられていた本です。
なぜか気になって借りてみました。
私は、エッセイはほとんど読みません。
自分の中でピンとこない、何も入ってこないと感じると、
途中でやめて返却します。
この本は、たぶんその部類に入ると思います。
寝る前に、少しずつ読んでいたのですが、
なぜか、やめて返そうという気にはならない本でした。
それは、綴られている文章が心地よかったからです。
その心地よさは、流れるような美しい文章ゆえでしょう。
自然の神秘をこよなく愛することのできる人だから、
このような美しい文章が書けるのだと思います。
とても分厚い本だったので、結局全部読んだわけではなく、
最終的には拾い読みした感じです。
それでも、かなり長い文章を書き留めています。
特にコメントはないのですが、書き留めたものは、
ここに出しておこうと思って、このブログを書きました。
『野の果て』(志村ふくみ著 岩波書店)より
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手の先には心が宿り、目がついているわけではない。
けれど時に手は思いがけない働きをして、目以上に物を見ているかの如く、
その触角はあらゆる感覚を集中して物をこの世に誕生させる。
けれども、私達はその表の言葉に従い、到底そこに行きつく筈もないが、
一歩一歩近づいていきたい、そのプロセスが私達の仕事である。
「物を創るとは汚すことだ」とまずみずからを戒めたい。
真っ白な糸、布、それらに手を下す。
人の手が触れればまず汚れる。
無垢のものをそのまま、この手の内にとどめることは不可能である。
万物の創生から今日まで、人はすべて地上にあらわれたものを汚してきた。
人類が快適に暮らすことは、周囲を汚すことによって保たれる。
それなのに、人は物を創る。
創らずにはいられない。
生きることを同義のように、人は物を創って死ぬ。
地上はそれらの汚物でみちあふれている。
そんな中で私も物を創り続けて約半世紀に生きてきた。
勿論創っている時は、そんなことを考えず、
ひたすら美しいものを創りたいと願って仕事をしてきたのだ。
しかし、年をかさね、時代が刻々と変貌してくるにつれて、
拭っても拭いきれないある危機感が迫ってくるのである。
私達の仕事は、まず素材との出会いである。
蚕の糸、植物、自然の素材はまず人の手によって撓められ、
人は利することを第一に考える。
当然素材は傷つく。
そして死ぬ。
死ぬことによって人の手にゆだねられる。
そして再生がはじまる。
思えば、大きな課題を与えられたことになる。
物と人間の関係ほど複雑で奥が深く、不可解なものはない。
すでに物は人間の掌中にある。
どう生かすか殺すか、私達は日々その命題の前に立たされているのである。
しかし、かといって私は機の前で深刻に考えているわけではない。
むしろ、いろいろと機に向かっている。
それは、この年になっても少しも変わらない。
機に向かう時の喜びを緊張と期待。
すでに糸は満幅の信頼をもって身を投げ出している。
いかようにもしてくれといわんばかりである。
(中略)
「物を創ることは清めることだ」という、
全く逆転の思想が生まれるようなものを創ることは不可能なのだろうか。
そこには、きっと私達人間にも動植物にも
何らかの供養が必要なのではないだろうか。
すでに動植物はそれを否応なく強いられている。
人間のみ、高みから、
ますます傲慢に自然の供養を受けて繁栄しているような気がする。
やがて人間も何らかの供養をささげる時代が来るのではないだろうか。
すでに来つつあること、それが危機感であり、
ひとつにはそれが仕事への向かうこころざしのようなものではあるまいか。
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原則として、花から色は染まらない。
と言うのは、あの美しい花の色はすでにこの世に出てしまった色なのである。
植物は、その周期によって色の質が違う。
たとえば、サクラは花の咲く前に、
幹全体に貯えた色を、こちらがいただくのである。
花が咲いたり、実がみのったりしたあとでは、色の生気がちがう。
葉・幹・根・実は、それぞれの色の主張をもっている。
そのほか謎は限りなくちりばめられているけれど、
その中で一貫して思うことは、
宇宙の運行、自然の法則があらゆるものの細部まで浸透し、
その生命を司っているということだった。
仕事をはじめて十年余り、徐々に膨らむ謎の奥に何か足がかりが欲しい、
私が何故かと思うことに答えてほしいと絶えず求めていた。
そんなときであったのが、ゲーテの「色彩論」だった。
「自然と象徴」(富山房百科文庫(1982年)によって、
謎が次々に解けるばかりでなく、
今まで私が漠然と求めていた感覚の世界に
的確な足がかりを与えてくれたのである。
含蓄ある一点、導きの糸はそこからするすると紐が解けるように、
私を色彩世界の扉へと導いてくれた。
緑の戸口には、次のように書かれていた。
光のすぐそばには、われわれが黄と呼ぶ色彩があらわれ、
闇のすぐそばには、青という言葉で表される色彩があらわれる。
この黄と青が、もっとも純粋な状態で、完全に均衡を保るように混合されると、
緑と呼ばれる第三の色彩が出現する。
緑は第三の色なのである。
直接植物の緑からは緑はでないはずである。
闇と光が、この地上に生み出した最初の色、緑、生命の色、嬰児である。
一度この世に出現した植物の緑は、
次の次元へ移行しつつある生命現象のひとつである。
一度まわりだしたフィルムをまきかえすことはできない。
あの植物の緑は人間と同じように、この地上に受肉した色なのである。
それならば、植物によっていかに緑を染め出すことができるだろうか。
藍という植物を刈り取り、発酵させ、乾燥させ、
蒅(すくも)という状態にしたものを
甕に入れ、木灰汁(あく)、石灰、酒等々で再び発酵させ、
藍という染料を仕上げてゆくことは、
一つの芸といわれるほど難しいとされている。
見事に藍が建ち、染められる状態になった時、白い糸を甕の中に浸けて、
数分後に引き上げて絞り切った時、
この世ならぬ美しい緑(エメラルドグリーン)が出現する。
しかし、数秒にして消える。
緑は逃げてゆく。
そのあとは空気にふれた部分から青いるがあらわれる。
瞬間にして消える緑を、
人は「なに酸化しただけじゃないか」と言うかもしれない。
しかし、その瞬間をこの目てしっかりと見届けたあの緑こそ、
自然が秘密を打ち明けてくれた瞬間なのである。
消えてゆくものに自然は深い真実を宿している。
闇に最も近い青は、あの藍のなかから誕生した。
光に最も近い黄は、山野で十分太陽の光を浴びて育った植物、刈安、
黄檗(きはだ)、梔子(くちなし)、楊梅(やまもも)等々で染められる。
その黄色の糸を藍甕につける。
闇と光の混合である。
そして輝くばかりの美しい緑を得るのである。
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特にコメントはないと書きましたが、
手を動かすことで生まれた感覚を書いておきたいと思います。
仕事から帰って、今日は息子が食事をつくるので、その時間に、
メモ帳から、ここに上記の文章をコピペして、前置きを入れました。
そのまま投稿しようかとも思いましたが、
食事後まで置いておくことにしました。
食事後、ずっと手を動かしていました。
「きりがみアート」をやり始めたら、止まらなくなったのです。
きりくずであるクラフトパンチだけで、
40個の全部違うクリスマスオーナメントができました。
ただひたすら手を動かしていました。
頭は動いていないかの如く、静かでした。
そのとき、引用の冒頭のこの意味が分かる気がしました。
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手の先には心が宿り、目がついているわけではない。
けれど時に手は思いがけない働きをして、目以上に物を見ているかの如く、
その触角はあらゆる感覚を集中して物をこの世に誕生させる。
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それは、「きりがみ」とか「アート」とか、
特別なモノだけではないと思います。
家事は、言葉で言えば、料理とか皿洗いとか掃除とか、
ある一定のパターンでしかありませんが、
その時その時、一つ一つ全部違っています。
時間に追われ、やっつけ仕事としてやっている限りでは味わえないものですが、
丁寧にやっていると、心が落ち着き和んでくる感覚があります。
手を動かすことで、迷いやブレがなくなるのかもしれません。
いい感じの方向に導いてくれる感覚です。
手は、心の水先案内人、そう思えます。