学校というものについての少し辛口の表現があります。
『いまこの国で大人になるということ』(苅谷剛彦編 紀伊国屋書店)より
----------------------------------------
みんなのなかで、
「毎日の授業が楽しくてしょうがない。
先生の言っていることがスイスイわかって、
テストもいつも良い点取れたりして、勉強はとても楽しい。
そんな人いる? いたら手を挙げて」
ほとんど手を挙げない。
大部分は、自分とは関係ないといった表情だ。
今度は、
「じゃあ、授業ってつまんないなぁ。
勉強も何でこんなことしないといけないんだろうといつも思いながら、
毎日学校に来ている人は?」
そう聞くとほとんどが手を挙げる。
素直だ。
だから言う。
「それでいいんだよ。
実は毎日学校で勉強しているのは、勉強の中身を知ることも大事なんだけど、
それよりは、理解をしたり、筋道立てて考えることの練習なんだ。
でも、もっと大切な意味もある。
それは学校の勉強っていうのは、
ワケのわからんことに慣れる練習をしてるんだ。
ワケのわからんことに出会っても逃げ出さないことが、
大人になって働く上で一番重要なことなんだよ」
------------------------------------
学校でやることは、ワケのわからんことのようです。
『君は君の人生の主役になれ』(鳥羽和久著 きくまプリマー新書)より
------------------------------------
「何のために勉強するの?」の唯一の答えは、
「勉強をしなければならないという理由はない。
必ずしも勉強なんてしなくていい。しなくても生きていける」
ということになります。
しかし、それでも勉強することに
自分なりの意味を持たせようとする人がいるとすれば、
その条件は、
「あなたが勉強を通して自分自身が変化することを発見し、
それに伴って世界の受容のしかたが変わること、
さらに、そのことで、
あなたを取り巻く人やモノとの関係さえも変わることを許容できるか
ということにかかっています。
人生の大切な局面において、それを生き延びるためのスキルとして
抜群の効果を発揮することもあるのです。
勉強を通して身についた「疑う」姿勢が、
周りに安易に「流される」という情動的リスクを大きく軽減させるのです。
さらに言えば、
知らず知らずのうちに世の中の常識的枠組みに苦しめられている人、
それによって他人と自分を比較して
強いコンプレックスを感じている人にとっては、
勉強は社会的な常識や軋轢をぶち壊して、
自分独特の人生を取り戻すための大きな起爆剤になります。
-------------------------------------
勉強を通して身についた「疑う」姿勢と書かれていますが、
果たして、勉強でそれは身につくのでしょうか?
言われたことを素直にそのまま鵜呑みにしていたら、
「疑う」は身につかないようにも思えます。
そんな状況を打破するなんて、勉強によってできるのかな?
って思ってしまいます。
それは、人との関わりを通しての経験や、
様々な人からの学びによるものだと思います。
さらに続きます。
--------------------------------------
この世界には初めから特別な個性や独創性が存在しているわけではありません。
なぜならそれは、自ずと現れるのですから。
食器一つ洗うにしても、歯を磨くにしても、
そのひとつひとつにあなたの生きる道が現れます。
視界が悪い時には、抜け道を探さなくてはならないし、
人との関係の中で不整合があれば、何とか辻褄を合わせなければいけません。
それらの個別的な営みがすでに抵抗なんです。
「正しさ」の論理では決して追いつけない個別の生きた対応こそが独創であり、
それを地道に続けていくことが「正しさ」らしさへの抵抗になりえるのです。
もしあなたがいまより豊かな人生を望んでいるのであれば、
それはその抵抗のずっと先に現れる独特な穏やかさのことを言うのでしょう。
------------------------------------------
日々の生活の中で、それなりの役割を果たすことで、
学びと心は育っていくようです。
-----------------------------------
学校には悪しき平等主義があります。
それは、生徒全員をできるだけ同じに見ようとする思想です。
同じに見ることで、
生徒間の公平性を担保できると信じている先生たちがいるんですね。
クラス全員に同じ宿題を出すのも
「がんばればだれでも成果は出る」と皆に檄を飛ばすのも
「スタートラインはみな同じ」という考えに基づいているわけです。
実際のところは、
その方が相対的な評価をつける管理者(先生)にとって都合がいいから
そうしているだけだと思うのですが、
公平性という言い訳があるから、
それがさも正しいことのようにまかり通っているんです。
でもこれは端的に言って間違いです。
しかも、敗者(勉強ができない人、貧困な人など)は
努力が足りないから敗者なのだという偏った見方
(いわゆる自己責任論)を招きかねない悪質な噓です。
実際には、それぞれ向き不向きがあるし、
習得するのにかかる手間も時間も人によって違います。
--------------------------------------
子どものためではなく、教える大人側の都合で、
学校が運営されているとすれば、とても残念なことです。
こうなってくると、なんのために「学校」で勉強するのか、
その答えに苦慮します。
勉強は、学校に行かなくてもできます。
でも、なぜ「’学校」に行って勉強するのでしょうか?
それは、学校制度という仕組みがあって、
そこに行くのが当たり前だと、多くの人が思っているからだとも言えます。
この学校というもののあり方については、
今読んでいる本にも書かれていて、
後日まだここに戻ってくることになるでしょう。
ある意味、学校というものが、
子どもの生活の中心に位置づけられているからこそ、
不登校という問題が起きているとも言えます。
写真に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
手元にあった写真を適当に貼っています。