10月のはじめに、これを書いた。
勉強、教育、指導、学習、... なんだか楽しくなさそう - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』
今回は、教育について、もう少し考えてみたい。
まずは、教育基本法。
第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
とてもすばらしいことが書かれているが、第一印象は、なんとも古めかしい!
それもそのはず、昭和22年制定、それが今もまだ生きているということ。
教育の目的のあとに続く答弁の内容は、難し過ぎて何のことかわからない。
理解できる中でのポイントは、教育は「人を育てること」。
人を育てることは、学校で勉強して落ちこぼれないこととは違うはずだが、
いつの間にか、教育は、特に義務教育は、
学校に行かなければならないという常識に変わってしまっている。
『自由学校の設計 きのくに子どもの村の生活と学習』堀真一郎著に、
学校に関する常識(迷信)というのがある。
- 教育とは学校へ行くことである。
- 学校では先生と児童・生徒がいる。先生は教え、児童と生徒は教わる。
- 学習とは教科書の中身を習得することである。そして、国語・算数・理科・社会(中学ではさらに英語)が主要教科である。
- 子どもは年齢によってグルーピングされる。
- すべての子どもに同じことを教えるのが民主教育である。
- 1つのクラスに1人の担任が配属される。クラスの大きさは、ほぼ同じでなければならない。
- 学校教育は教師が行う。そして教師は教員免許を持たねばならない。
- 年長の教師は高い給料をもらう。
- 後者は、主として同じ大きさの複数の教室と長い廊下でできている。
- 教師の権威は、教師という地位に付託されている。
教育基本法の中にある学校教育の詳細が独立して学校教育法になり、
同じ年に制定されているのであろうが、もう時代は変わっている。
学校教育は人を育てることにはなっていないことを認識し、
教育のあり方を見直し、多様性を求めていく必要があるだろう。
昭和22年、戦後2年の時期には、何のための教育かというと、
国家の役に立つ人材を育てるということであったのではないだろうか?
それを否定するものではなく、たぶんそれは必要なことだったのだろうと思う。
しかし、もうそういう時代ではなく、もっと多様な一人ひとりにフォーカスし、
誰もが、将来幸せや生きがいを持って生活できるためのお手伝い、
私は、そうあってほしいと思っている。
ちなみに、普通の学校にあるものが何もないのが「きのくに子どもの村」である。
では、なにがあるのかというと、楽しいことがいっぱいある!
写真は、特に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。