【学びの時間】孤独について考えてみる

月1回のオンライン読書会で

『生きがいについて』(神谷美恵子著 みすず書房)

を読んでいる。

その中に、

” 人間の生はそもそも「根本的な孤独」なのである "

という言葉があり、こう続いていた。

-----------------------------

愛はまず、互いの心の世界を知ること、

理解することへの努力から出発すべきものなのであろう。

もし初めから相手の住む世界を完全に知ることができたならば、

ー そのようなことは絶対に不可能なことであろうし、未知のところ、

神秘的なところを蔵してこそ魅力というものが生じるのだが ー

そのひとから期待しうることは何か、ということもわかるはずで、

たとえばそのひとが愛情と誠実とかいうような言葉を使う場合でも、

それがどんな意味で使われているか、

その内容と限界がはっきりとわかるはずである。

その人が住んでいる世界での精一杯のことをしてくれれば、

それがそのひとなりのぎりぎりの愛情であり誠意なのであって、

それ以上を期待するのはまったく当を得ないことがわかるはずである。

ところがひとは、自分の心の世界を超えるものについては、

自分の世界での概念を使って説明や理解を試みることしかできないので、

そこからたくさんの心のくいちがいがおこる。

--------------------------------

 

なるほどなって思いながらも、

自分でも「孤独とは何か」を考えてみようと思ってこれを書いている。

 

辞書的には、孤独とは、

  • ひとりぼっち
  • 精神的なよりどころとなる人、心の通じ合う人がなく、寂しいこと

である。

独りというのは、物理的現象でそこにはそれ以上の意味はない。

それを「ひとりぼち」と言ってしまえば、寂しさの感情が加わってくる。

信頼できる人、心の通じ合う人がないというのは、心の中のことである。

それが、すなわち孤独感であろう。

 

しかし、一方では、人はみな孤独である、人とわかり合えることはない、

ともいわれるので、心の通じ合う人なんで、そもそもいないといえる。

長年連れ添ってきて、心が通じ合っていると思う人がいるとすれば、

それは幻想としか言いようがない。

だからどうすればよいのかは、神谷さんの言葉の中に表されていると思う。

 

では、どうして多くの人は孤独感を味わうのか?

神谷さんの言うようにできないのか?

 

ネットで調べてみると、

孤独とは、不完全な自分に対する不安や苛立ちであり、

自分に対して否定的な気持ちを持ち続けると、

誰も自分を認めてくれないという気持ちに代わる、

と書かれていた。

 

ここからは私の勝手な想像である。

愛情を一杯もらって、自分の存在を大事にされて育った人は、

このような孤独には陥らないのではないかと思うのである。

幼いときから、自分のことを聞いてもらえないで育つと、

言ってもしかたがない、考えてもどうせ聞いてくれない、

それが無意識のなかに落とし込まれ、何も感じられなくなり、

つねに背負っているのは無力感ということになる。

そうなると、自分の好きなことやりたいこともわからなくなり、

自分に向き合う時間も気力もなくなっていく。

 

言葉は適切ではないが、

孤独には、「良い孤独」と「悪い孤独」がありそうである。

分かれ目は、「孤独の大切さ」を知っているかどうかにかかっている。

ネット情報によると、孤独には、この2つの孤独があるという。

  • 自分で選んだ孤独「選択的孤独」
  • 否応なく追いやられた孤独「非選択的孤独」

 

「非選択的孤独」の場合、追いやられた状態なので、

そこには被害者意識があるだろう。

他人を信じられない人、虐げられたと思っている人には、

自分を守るために、

人の嫌がることをするような攻撃的な面も出てくるだろう。

自分だけを大事にしようとふるまえば、

あるいは、そう見える行動をすれば、それは「孤立」につながる。

 

「選択的孤独」の人は、孤独とは自分を大切にすることだと知っている。

だから、孤独の時間を大事に使っている。

人はそもそもわかり合えるものではないことを知っている。

人は、自分の期待通りにならないことを知っているのである。

 

「選択的孤独」について、ネットの請け売りをしてみよう。

  • 「孤独とは本来ぜいたくなもの」 お坊さんが修行するように、瞑想して自分に向き合うように、誰からも邪魔されないように
  • 「同質なものから離れ、異質なものを出会う」 一人旅で思わぬ出会いがある、一人飲みでステキな人に出会う、一人でいると人から声をかけれれることがある
  • 「自己投資の時間」⇒成長 読書時間、趣味の時間、勉強する時間
  • 「いつも立ち返ることのできる場所」

 

ここからはまた私の勝手な解釈になる。

  • 「非選択的孤独」は「思考の孤独」、「受け身の孤独」といえる。常に頭の中に不安が浮かんできたりするし、自分でやりたいことがないので、ネットやゲームなどに依存しがちである。
  • 「選択的孤独」は「心の居場所」、「能動的な孤独」である。いわば、いつも立ち返ることのできる場所である。そして、自分でやりたいことがあるので、頭の中で変なことは考えずに、感覚や体を動かしている。
  • 私は、よく一人で散歩する。自然と触れ合うことができ、健康的でもあるし、五感も働く。小さな命との出会いも楽しい。最近感じるのは、家事も大切な能動的な孤独であり、心の居場所なのではないかということである。

 

f:id:solcafe:20220306124856j:plain

 

いろいろ考えた末に行き着いた先は、やはり「感謝」。

「感謝」のある孤独か、「感謝」のない孤独か?

ひとりでいるときに、あるいはひとりぼっちでいるときに、

「ありがとう」と言えるかどうか?

 

「感謝のない孤独」は、コップの水の入ってないところを見ている。

だから、あれもない、これもない、あったらいいのに、と思う。

はてしない不足感、不満感である。

それを人のせいにしてしまう、あるいは自分がダメだからと思ってしまう。

そんな状態であれば、「ありがとう」の気持ちは生まれてこない。

到達することのできない、あるいは永遠に満足に至らない理想の状態から、

引き算をしているのである。

 

「感謝のある孤独」は、コップの水を見ている。

あれもあるな、これもあるな、ありがたいな、と思うのである。

コップの水を見れば、今あるものに感謝し、それを大事にするので、

もっとこれもあるぞと新たな発見があり、水はどんどん増えていく。

それがなくなったら大変なことになると感じることができるから。

物事を足し算で見ているのである。

 

今あるものへの感謝を足し算していくので、

水はどんどん増えてあふれ出してくる。

そのあふれ出た水はどうすればよいのか?

それは、「感謝のない孤独」な人たちのコップを満たしてあげること!

ほんのちょっとしたことで、引き算から足し算に変わっていくのである。

 

私は幸いにも、ライフワークとして、学校でドリームマップ授業をやり、

多くの子どもたちのコップの水が、

6時間の授業の間にたくさん増えていくのを見て、

肌で感じる体験をさせてもらっている。

ありがとう!

 

先週の金曜日もそうだった。

授業終了後の感謝のある孤独な面々、イキイキと楽しそうだね。

f:id:solcafe:20220306174640j:plain

 

一週間前に「孤独とは何か?」の問いを出し、

出てきたものをその都度メモして、今日まとめてみた。

これはまさに、私自身にとっての「孤独な時間」だった。

そんな豊かな時間にありがとう!