「親になるということ」を思う - 菫が生まれて No.1 ー

今日の未明に、一つの大切な命が、この世界に生まれ出てきました。

そして、私は、初めて「おじいちゃん」になったのです。

 

娘が、3162gの元気な女の子を出産しました。

 

そんな今日、自宅待機となっている私は、

ある意味淡々と、必要なこと、やりたいことをやりながら、

ゆっくりと自分の時間を過ごしています。

いずれにしても、赤ちゃんのお父さんも面会できない状況なので、

いまは、赤ちゃんの写真と動画だけです。

いま、それができることだけで、ありがたいです。

 

必要なことやりたいことの一つである

毎日少しずつ読んでいる芳村思風先生の『感性論哲学』の冊子の、

「人間を愛するとは不完全な存在を愛すること」の一節、

わずか2ページをじっくり読みました。

 

まさに、赤ちゃんは、不完全な人間の中でも、

とりわけ不完全な状態で生まれてきます。

 

その前の一節に書かれていたのが、この深い言葉です。

  • 「結婚は恋の終わりで、愛の始まり」なのです。

今日の一節の響く言葉は、これらです。

  • 人間は長所半分、短所半分。
  • 人間を愛するとは、長所も短所も愛するということです。
  • 恋は自然発生的なものです。愛は努力が必要です。

 

これらの言葉と、一節の文章を味わってみると、

昔から疑問に思ってきたことへの、一つの答えが見えてきた気がします。

 

長年の疑問:

大学に入るにも、就職するにも、資格を取るにも、

必死に勉強し、選抜の門を潜り抜けなければならない。

なのに、人生でいちばん難しいと実感している

「結婚」と「子育て」は、ある一定の条件さえ整えば、

勉強しなくても、心の準備ができていなくても、

そこそこ簡単に誰でもできる。

これはなぜだろう?

 

母親はちょっと違うとしても、父親、特に私の場合には、

当時、子育てに対し、自覚も学びも乏しかったのは、

まぎれもない事実です。

 

そんな私が「おじいちゃん」になった今は、

学童保育や放課後子ども教室で、そして、ドリームマップで、

子どもが子どもらしく、のびのび、すくすく育つお手伝いをしています。

 

受験、就職、資格取得は、ある意味、取ってつけたようなものです。

それがほとんどの人たちの通過点となったのは、ごく最近のことです。

その取ってつけたような人生の一コマが、

失敗できないほど大事なものに思えるようになったのは、

現代人の思い込みであり、重大なひずみだと感じています。

 

一方、結婚、子育ては、本能的な生き方です。

それは、事前にはほとんど勉強できません。

頭で理解する、理性で考えても役に立たないからです。

なって初めて、肌で感じて学んでいくものなのです。

 

恋が終わった後に、努力の必要な愛を育てるということは、

人間にとってかけがえのないものです。

私を含めて、頭でっかちになった人間は、

その本能的な意識が薄れてしまっているのではないかと思えます。

 

それは誰から学ぶのでしょうか?

やはり、おばあちゃんやおじいちゃん、

そして、親戚や近所の人たちからですが、

いつのまにか、多くの親にとって、

子育ては孤独なものになってしまっています。

 

今起こっているコロナウィルスの試練は、

人間に本来のあり方を思い出させるために、

神様が与えてくれたものだと思っています。

 

明るい未来の方向に、地球全体が大転換しようとしているいま、

この子は生まれました。

幸せな子だと思います。

 

その幸せを、現実のものにしたい、これが私の気持ちです。

 

この子を含め、多くの子どもたちの未来を明るくしていくのは、

目覚めた、これから目覚める大人たちです。

未来を明るくするためには、

私たち大人が、明るい心をもって、行動していくことが必要です。

 

そして、子どもを育てるということは、

子どもたちが、大きくなったとき、

「愛する努力」ができる大人になるように、

成長のお手伝いをしていくということだと思っています。

 

芳村思先生のお言葉を借りれば、愛するということは、

  • 短所を認め、許し、それも含めて人を愛するということ
  • 考え方・価値観・宗教・民族の違う人を愛すること

だからです。

 

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名前は、「菫」となりそうです。