『思いどおりなんて育たない』(アリソン・ゴブニック著 森北出版)
に興味深い実験のことが書かれていました。
実験①
著者アリソン・ゴブニッツ、アンディ・メルツォフ、
アナ・ワイズマイヤーの生後24か月の子どもを対象にした実験
- テーブルの上におもちゃの車があり、両脇に箱が一つずつある。
- 真ん中の奥側に光るおもちゃが置かれている。
- 実験者が車を動かして、どちらかの箱にぶつけると、真ん中のおもちゃが光る。
- もう一方の箱にぶつけると何も起こらない。
- それを何度か繰り返す。
生後24か月の子は、自分たちでも、光る方の箱に車をぶつけた。
それだけでなく、おもちゃが光る前に、そちらの方を見ていた。
まるで光ることを予期していたかのようだった。
実験②
- 車がひとりでどちらかの方向に動き、正しい方にぶつかるとおもちゃが光る。
車が動くとおもちゃが光ることの間に強い関連性があるにもかかわらず、
この実験に参加した24か月の子どもたちは、車を動かそうとはしなかった。
私たちがおもちゃを光らせてごらんと言ったときでさえ、
ただ座っているだけだった。
車が動いているときは、おもちゃの方を見ようとさえしていなかった。
本当に車の動きが、おもちゃが光るとわかっていないようだった。
子どもたちは、最初、原因と結果の関係は、
常に、だれかがしたことの結果であると考えた。
他の人の行動を見て、その結果から因果関係を導き出すことが、
その子どもたちが自分で何かをすることを学ぶときの中心的な方法だった。
まったく同じことが起こっても、そこに実験者の行動がないと、
子どもたちは、そこからあまり学ぶことができなかったのだ。
実験③
ラットを使った研究では、
仲間と遊びながら成長したラットと遊ばなかったラットを比較した。
幼いとき隔離されていたラットは、成長した時、
他のラットとかかわるのが難しくなることがわかっている。
(中略)
遊ばなかったラットも、遊んできたラットと同じようなことはできる。
攻め方や守り方、交渉の仕方、逃げ方は知っている。
しかし、いつ何をすべきかを知らない。
戦いにしろ求愛にしろ、荒っぽい遊びをしていたラットほどには、
すばやく、柔軟に、あるいは臨機応変に対応することができない。
実験④
エリザベス・ボナヴィッツと同僚たち未就学児を対象にした実験
- 違う機能を持つプラスチックのチューブをいくつも組み合わせたチューブがある。
- 高い音が出る、中に鏡が仕込んである、明かりがつく、音楽が流れるというもの。
- 実験者が、「このおもしろいおもちゃを見て....、あっと..」と、たまたまチューブを押してしまい、それが高い音を立てる。
- 残りの半分のグループの子には、「このおもちゃを見て」と言い、意図的にチューブを押して高い音を立てる。
- そして子どもたちだけにして、そのおもちゃで遊ばせる。
どちらの子どもたちも、すぐにチューブを押して音を出し、
音が出る仕組みを学習していた。
- 前者は、夢中になって遊び、でたらめにあちこちいじって、すべての仕掛けを発見した。
- 後者は、音の出るチューブを何度も何度も飽きるほど押して、新しいことをやろうとしなかった。
この本は、改めて向き合ってみて、
私にとても大きな気づきを与えてくれました。
- 以上から感じることの一つは、子育ては、スマホでは代用できないということです。人と人とのかかわりの中で、子どもは成長していきます。
- もう一つは、教えることで子どもを受け身にさせないことです。興味がわけば、「やってみる」「考えてみる」が生まれます。
私にも孫がいますが、笑顔がとってもかわいいです。
その笑顔は、「人とのかかわりの中でしか生まれない」ということに気づきます。
生身のかかわりの中でこそ生まれるのです。
子どもにスマホや動画を見せると、無表情でそれを眺めています。
笑ったりすることもあるかもしませんが、
あったとしても、それは笑顔ではありません。
それは、大人でも同じです。
スマホを見続けている限り、
そこにはほぼ一貫した人間味のない表情があるだけです。
たまに、にやけるかもしれませんが、それは笑顔ではありません。
人間は機械に囚われると、無表情、そして無感情になっていくのです。
子どもたちと過ごす私の仕事場でも、それは感じます。
電子機器は一切使いません。
アナログのおもちゃ、自らのお絵かき、友だちとの触れ合いに、
真剣さや嬉々とした表情が埋まれます。
ただ、それも人によって違います。
一人で遊んだり、本を読んだりする子もいます。
それはそれで、その子の人とのかかわり方なのだと思います。
そんな子がなぜここに来るのか?
私は、親に行けと言われているからではないと思っています。
本人が期待から、週に何度も来ている、そう感じています。
そこには笑顔はないのですが、それは個性です。
決して、受け身の無感情・無表情ではないと思っています。
読書メモとの再会は、そんなことを考えさせてくれました。