【学びの散歩道】(112)それは自己責任です、に続いて、
『生きることは頼ること』(戸谷洋志著 講談社現代新書)
から引用します。
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精神科医の片田珠美は、現代社会を「一億総他責社会」と呼ぶ。
片田によれば、「他責」とは
「うまくいかないことは何でも他人のせいにして
" 自分は悪くない " と主張することである」
(中略)
「自己責任」は、容易に反転して他責になる。
「自己責任」の重圧に耐えられなければ、自分自身の問題を否認して、
他人に転嫁するのが最も手っ取り早いからだ。
だから問題が起こるとすぐに「○○のせい」と責任転嫁して、
「自分は悪くない」と主張する。
(中略)
他責に陥るということは、言い換えるなら、無責任になるということだ。
自己責任論はかえって人々を無責任にさせる。
なぜこのような逆説的な事態が生じるのだろうか。
文学研究者の荒木優太は、その理由を次のように説明する。
というのも、それは自己責任だ、という言明は多くの場合、
その当の「自己」から発せられるものではなく、
見捨てることを正当化しようとする他者から発せられるものだからだ。
勿論、他者による責任追及一般が無効であるとは言えない。
ただし、そこで見いだされる「自己」なるものは、
拡散した責任を個人に集約させ、
すべてをなすりつけるスケープゴート化の産物なのでは、
と疑ってみる必要はあるだろう。
ある個人の帰責と同時にその裏では様々な関係者、
政府や企業や国民の免責が行われているのかもしれない。
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今の世の中、毎日のようにテレビに出てくるのは、
「自分はやってない」
「自分は知らない」
「私はちゃんとやっているから、私の責任ではない」
という判で押したような言葉です。
さらに外野が適当なことを言い、誹謗中傷、フェイクニュースが飛び交う。
これは日本だけの話ではなく、
自画自賛、他責一辺倒の人が大統領になったりする時代です。
それは、多くの人が、そんな人たちを支持しいているということなのです。
私には不思議で仕方がないのですが、こんな現実が目の前に展開されています。
一人よがり、迎合、無責任、虚偽、金のため、弱者の支配、…、
そんな言葉が思い浮かぶ今日この頃です。
どう考えても、このまま続いていくとは思えない
究極の状況に思えて仕方がありません。
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一つのヒントがある。
それは、責任を捉える視点を別の側面に向けるということである。
強い責任は、「だれに責任があるのか」ということを強調する。
それは言い換えるなら、責任概念にとって重要な点が、
責任の「主体」だけに限定されている、ということだ。
しかし、責任は常に、誰かに対しての責任でもある。
つまりそこには、責任の「対象」もまた存在する。
もし私たちが、
責任をめぐる視線を責任の「主体」から「対象」へと起き移すことができたら、
私たちは責任を違った仕方で語ることができるようになるだろう。
誰に対して責任を負っているのか、ということを意識するなら、
だれが責任を負っているのか、
ということは後景に退いていくことになりうだろう。
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誰に対して責任を負っているか、この点は、言葉では理解できるのですが、
具体的なイメージが、今の私には湧いてきていません。
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強い責任は、他者を頼ることなく自律的に生きることのできる
「強い」主体を前提とする責任概念である。
この概念において重視されるのは、責任の主体がだれであるのか、
つまりだれの責任なのか、ということだ。
強い責任の典型は自己責任論である。
この言説は、1980年代以降、新自由主義の浸透ともに日本社会に普及してきた。
新自由主義は国家による社会保障を縮小するが、
自己責任論は、そうした政策を規範的に正当化する。
それによって社会のなかで、「責任のある者」と「責任のない者」は分断され、
人々は孤立状態に置かれる。
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最近新自由主義という言葉をよく目にします。
新自由主義とは何かわかりやすく説明!自由主義との違いも解説 | 東証マネ部!
こういうことですが、時代の流れとしては避けて通れなかったものだと思います。
しかし、これでは、もうやっていけない状況に来ているのです。
格差拡大だけでなく、人の心も荒んできています。
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弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた「弱い」主体が連帯しながら、
他者の傷つきやすさを想像し、それを気遣うことである。
そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、なにかを頼らざるをえない。
責任を果たすことと、頼ることは、完全に両立する。
それが本書の主張である。
自己責任論が蔓延する現代社会において、私たちは、
未来をリスクに満たされたものと見なしている。
もちろん、それは事実だろう。
しかし、そのようにリスクばかりを前景化することは、
傷つきやすさを抱えた他者を、特に子どもたちを、ただいたずらに脅かし、
その可能性をかえって閉塞させることになるのではないだろうか。
それに対して、弱い責任における保証と信頼の実践は、そうした脅威を和らげ、
子どもたちの可能性を開くものとして機能するのではないだろうか。
どんな未来が待ち受けているのだとしても、「私」は大丈夫であり、
その未来を生き抜くことができる
ー そう子どもたちが信じられる世界を維持することが、大人の責任である。
そして、その責任は、責任の主体同士の連帯によって、大人たちが互いに連携し、
お互いを頼り合うことによって、はじめて成立するのである。
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人は一人では生きられない、これは疑いようのない事実です。
そうなれば、助け合って生きていくほかないわけです。
この本のタイトルのように、「生きることは頼ること」、
そのためには、他人を思いやる心が大事なのです。
そんな未来を子どもたちに届けるのが、私たち大人の責任なのです。
私は、子どもを真ん中に据えることで、
大人の意識は、責任を果たしながら、
頼り合う方向に向かっていくと思っています。
写真に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
手元にあった写真を適当に貼っています。