『ルポ 希望の人びと』(生井久美子)には、医師自身が、認知症から学んでいる姿が記されています。
木之下徹(医師、JDWG発足にかかわった人)
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本人の悲痛よりも、「ともかく家族が泣いている」「近寄ると殴るんです」と訴えられると、カルテに「不穏興奮、暴力」と書いて、静かにさせる薬を処方する。
「まだ、大変です」と聞くと、量を増やした。あらかじめ副作用を予測しながら対応し、薬をうまく使うテクニックには自負もあった。
だた、こんな処方を続けていいいのか、これは本人ではなく、「周囲や家族のため」の処方だ。
「患者」というのをやめると、自分お対応に疑問がわいた。医療って何だ?
「うるさいから黙らせる」のではなく、「うるさくても人らしく生きられる」ように支援するのが医療だろう、と思うようになってきた。
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山崎秀樹(精神科医 宮城県で、複数の介護施設や精神障害者の作業所をつくり、入院せずに最後まで地域で暮らせるように尽力)
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早期診断=早期絶望といわれる。
当事者にとって認知症との最初の出会いは、実は一人の医師との出会いによる。
「医師が打ちのめしてきた。自分の加害者の一人であることは間違いない」。
希望を持たない医師が、本人に希望を添えられるはずがない。
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本文より
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クリスティーンの来日の後、本人の声を聴く動きは高まってきたけれど、それは医療やケアのためでした。
あくまでも認知症の人は「対象」。
でもJDWG(日本認知症ワーキンググループ)は、認知症の「本人こそが認知症のプロ」で「当事者に聴かなきゃ認知症のことはわからない」と打ち出した。
その指摘は鋭い。
認知症の医療や介護は、手段と目的が逆転してきた、とも思う。
療法は手段にすぎないのに、両方を提供するのが目的で、「本人の幸せ」が目的になっていないことが少なくない、というのだ。
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認知症になると悪いことばかりではないようです。
丹野智文(39歳と2か月で若年性アルツハイマー型認知症と診断される)
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家族と過ごす時間が増えた。営業マンだったころは、仕事中心の生活で、夜遅くに帰宅し、休日もお客さんとゴルフに出かけた。
今は夕食を家族そろって食べ、娘たちとのおしゃべりも増えた。
難しい年齢にさしかかるけど、いっしょにいられる時間を大切にしたい。
両親ともしょっちゅう話すし、きょうだいも関係が深くなったと思う。
家族の会の人々と知り合えたこと、たくさんの人のやさしさに触れ合えたこと、悪いことばかりではない。
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どうも、現代の世の中には、手段を目的と取り違えているのではないか?
という風潮があると、私は感じています。
ワールドカップは、あまり見ていませんが、
番組をちらちら見たり、ニュースを見る限り、
彼らは、勝つ(目的の)ためにゲームをしているんだよね、
って感じてしまいます。
勝つための戦略、賭け、.....
会社で働いている人、特にまじめな人が、苦しんでいます。
身近な仲間の状況や、Facebookの投稿を見ると、そう感じます。
人はなぜ働くのでしょう?
それは、なぜ生きるのかにもつながります。
丹野さんは、認知症になって、
生活の中心が、本来の生きる目的に変わってきたのではないでしょうか。
働いて生活の糧をえることは、必要なことです。
私は今定年退職をして、無職・無収入です。
収入は得たい、でも、これからは自分に正直でありたい、
そのはざまで、深刻さはないものの心は葛藤しています。
現代に生きることは、単純なことではないし、
やりたいことだけやって生きることも困難です。
ただ、どういう状況でも大事なのは、
幸せを感じながら生きることです。
私は、思います。
いま、ほとんどの人はToo Muchな社会に生きています。
そんな状況では、人生もToo Muchにならざるを得ません。
いま私は、自分のやりたいことしかやっていない状況なので、
これから足し算をしていく必要があると思っていますが、
過去サラリーマンだったころを考えてみると、
引き算が必要だったと思えます。
その引き算は、あることがきっかけとなって、
それに気づき実行することができました。
よいことがある前には、つらいことがあるんです。
そのおかげで、かけている色眼鏡に気づき、
かけ替えようと思えたのでした。
やっていることに一つ一つに向き合って、
- これは本当に必要なことなのだろうか?
- 何のためにやっているのだろうか?
- それをやめたらどうなるのか? 困ることはあるのか?
- その困ることは大事なことなのか?
Too Muchというのは、
あれもこれもやり過ぎているToo Manyではなく、
ある限られた範囲内でやりすぎているToo Muchです。
私がそうでした。
多くの人がそうでしょうが、
仕事に心身ともにささげている状態でした。
たぶん、それは自分のエゴからきているのですね。
息子のことがきっかけで吹っ切れたとき、
優先順位が変わりました。
いままで見ていなかったものが見えてくると、
大事なものが変わり、
自分のあり方も変わります。
認知症に戻ります。
最近認知症の人がなぜこんなに増えているのでしょうか?
なんだか、このToo Muchに関係しているように感じられます。
認知症の母の言動をよく注意していると
感じられることがあります。
もう少し、掘り下げてから書いてみます。