認知症に学ぶこと③ 医師の場合

『ルポ 希望の人びと』(生井久美子)には、医師自身が、認知症から学んでいる姿が記されています。

 

木之下徹(医師、JDWG発足にかかわった人)

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本人の悲痛よりも、「ともかく家族が泣いている」「近寄ると殴るんです」と訴えられると、カルテに「不穏興奮、暴力」と書いて、静かにさせる薬を処方する。

「まだ、大変です」と聞くと、量を増やした。あらかじめ副作用を予測しながら対応し、薬をうまく使うテクニックには自負もあった。

だた、こんな処方を続けていいいのか、これは本人ではなく、「周囲や家族のため」の処方だ。

「患者」というのをやめると、自分お対応に疑問がわいた。医療って何だ?

「うるさいから黙らせる」のではなく、「うるさくても人らしく生きられる」ように支援するのが医療だろう、と思うようになってきた。

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山崎秀樹(精神科医 宮城県で、複数の介護施設や精神障害者の作業所をつくり、入院せずに最後まで地域で暮らせるように尽力)

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早期診断=早期絶望といわれる。

当事者にとって認知症との最初の出会いは、実は一人の医師との出会いによる。

「医師が打ちのめしてきた。自分の加害者の一人であることは間違いない」。

希望を持たない医師が、本人に希望を添えられるはずがない。

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本文より

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クリスティーンの来日の後、本人の声を聴く動きは高まってきたけれど、それは医療やケアのためでした。

あくまでも認知症の人は「対象」。

でもJDWG(日本認知症ワーキンググループ)は、認知症の「本人こそが認知症のプロ」で「当事者に聴かなきゃ認知症のことはわからない」と打ち出した。

その指摘は鋭い。

認知症の医療や介護は、手段と目的が逆転してきた、とも思う。

療法は手段にすぎないのに、両方を提供するのが目的で、「本人の幸せ」が目的になっていないことが少なくない、というのだ。

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認知症になると悪いことばかりではないようです。

 

丹野智文(39歳と2か月で若年性アルツハイマー型認知症と診断される)

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家族と過ごす時間が増えた。営業マンだったころは、仕事中心の生活で、夜遅くに帰宅し、休日もお客さんとゴルフに出かけた。

今は夕食を家族そろって食べ、娘たちとのおしゃべりも増えた。

難しい年齢にさしかかるけど、いっしょにいられる時間を大切にしたい。

両親ともしょっちゅう話すし、きょうだいも関係が深くなったと思う。

家族の会の人々と知り合えたこと、たくさんの人のやさしさに触れ合えたこと、悪いことばかりではない。

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どうも、現代の世の中には、手段を目的と取り違えているのではないか?

という風潮があると、私は感じています。

 

ワールドカップは、あまり見ていませんが、

番組をちらちら見たり、ニュースを見る限り、

彼らは、勝つ(目的の)ためにゲームをしているんだよね、

って感じてしまいます。

勝つための戦略、賭け、.....

 

会社で働いている人、特にまじめな人が、苦しんでいます。

身近な仲間の状況や、Facebookの投稿を見ると、そう感じます。

 

人はなぜ働くのでしょう?

それは、なぜ生きるのかにもつながります。

 

丹野さんは、認知症になって、

生活の中心が、本来の生きる目的に変わってきたのではないでしょうか。

 

働いて生活の糧をえることは、必要なことです。

私は今定年退職をして、無職・無収入です。

収入は得たい、でも、これからは自分に正直でありたい、

そのはざまで、深刻さはないものの心は葛藤しています。

 

現代に生きることは、単純なことではないし、

やりたいことだけやって生きることも困難です。

 

ただ、どういう状況でも大事なのは、

幸せを感じながら生きることです。

 

私は、思います。

いま、ほとんどの人はToo Muchな社会に生きています。

そんな状況では、人生もToo Muchにならざるを得ません。

 

いま私は、自分のやりたいことしかやっていない状況なので、

これから足し算をしていく必要があると思っていますが、

過去サラリーマンだったころを考えてみると、

引き算が必要だったと思えます。

その引き算は、あることがきっかけとなって、

それに気づき実行することができました。

よいことがある前には、つらいことがあるんです。

そのおかげで、かけている色眼鏡に気づき、

かけ替えようと思えたのでした。

 

やっていることに一つ一つに向き合って、

  • これは本当に必要なことなのだろうか?
  • 何のためにやっているのだろうか?
  • それをやめたらどうなるのか? 困ることはあるのか?
  • その困ることは大事なことなのか?

 

Too Muchというのは、

あれもこれもやり過ぎているToo Manyではなく、

ある限られた範囲内でやりすぎているToo Muchです。

 

私がそうでした。

多くの人がそうでしょうが、

仕事に心身ともにささげている状態でした。

たぶん、それは自分のエゴからきているのですね。

 

息子のことがきっかけで吹っ切れたとき、

優先順位が変わりました。

いままで見ていなかったものが見えてくると、

大事なものが変わり、

自分のあり方も変わります。

 

認知症に戻ります。

最近認知症の人がなぜこんなに増えているのでしょうか?

 

なんだか、このToo Muchに関係しているように感じられます。

認知症の母の言動をよく注意していると

感じられることがあります。

もう少し、掘り下げてから書いてみます。