『「里」という思想』(内山節著 新潮社)を読んで試みる哲学の真似事の続き、
多層的な時間の流れ・歴史の本論に入ってみよう。
著者はこのように時間は多層的に流れていると言っている。
-----------(要約)------------------------
哲学者だけでなく、物理学者や社会学者の一部も、
「この世界には、さまざまな時間が多層的に流れている」と考えている。
いろいろなスケールの時間が併存している。
- 宇宙が生まれ、消滅していく大きなスケールの時間
- 地殻変動を起こしながら姿を変えていくかなり大きなスケールの時間
- 自然界が生まれ変貌していく過程で動いている小さなスケールの時間
さらに、すべての生物は、その身の丈に合った時間の流れを持っている
と考える生物学者もいる。
人間の等身大の時間も、またひとつではないのかもしれない。
- 幼い子供たちが身を置いている時間の流れ
- 大人たちが身を置いている時間の流れ
- 農業とともに展開する時間
- 今日のインターネットが作動するときの時間
これらは、異なった時間なのかもしれない。
現代を作り出した過去の時間自体が多層的であり、
過去の時間としての歴史も多層的に形成されている。
自然の歴史と人間の歴史は二つの異なる時間軸で作られる。
それらは、ときに干渉し合っているだけなのだろう。
人間の歴史も多層的な時間の流れでできている。
------------------------------------------------
その多層的な歴史が壊されてしまったのが近代だと著者は言う。
--------------------------------------------------
アメリカの先住民たちはかつて、自分たちの歴史を、
つまり自分たちの時間の流れと蓄積を持っていた。
そこに全く異なる歴史(=時間の蓄積)をもつヨーロッパ人が上陸してきた。
こうして二つの歴史(=時間)が衝突し、
先住民の歴史(=時間)の大半がこわされてしまった。
---------------------------------------------------
1492年 コロンブスの北米大陸発見
1783年 アメリカ13州の独立
この時期、18世紀後半にイギリスで産業革命が起こった。
ここから、世界各地に存在した歴史の多様性がことごとく壊されていく。
強引な力で画一的な歴史がつくられていった、そう思えるのである。
それを著者は、このように表現している。
---------------------------------------------------
かつて私たち人間世界にも、さまざまな歴史が、
つまり時間の蓄積が存在していた。
その地域の暮らし方をつかさどった歴史=時間の蓄積も、
文化史や社会史、経済史といった歴史も、それぞれが独自の展開をとげていた。
歴史は、多層的であり、ひとつではなかったのである。
そして、この多層的な歴史を、ひとつの「真実の歴史」へと統合してきたとき、
歴史からみたときの近代社会の形成ははじまっていた。
なぜなら、ひとつの歴史軸に国民や世界を統一することによって、
近代的な世界はつくられたのだから。
---------------------------------------------------
また、こんな見方も示されている。
---------------------------------------------------
近代社会が形成されたとき、この社会を領導した人々は、
近代社会が過去のどの社会よりも高度な社会だと説明する必要があった。
それが、星座のように共同体が点在する社会から
国民国家へと転換するうえで必要だった。
なぜなら、国民国家には、
人々を国民として共通化するアイデンティティーが必要であり、
そのアイデンティティーは、
国民は過去よりもずっとよい社会に住んでいる
という心理をつくりだすことによって成立しうるものだったからである。
もう一つ、こういう問題があった。
近代社会は産業資本主義の展開とともに生まれていく。
その産業資本主義は、日々拡大再生産をとげることによって、
「正常」な生産ができる経済システムである。
すなわち、このような国民国家と近代的な市場経済の要求が、
過去の歴史を乗り越えられたものとしてみる歴史観をつくりだしてしまった。
-----------------------------------------------------
私たちは、過去の歴史を乗り越えられたのだろうか?
乗り越えるどころか、引き返すことが非常に困難な状況にまで、
同じ過ちを繰り返し続けているのではないだろうか。
このままの資本主義は、もう続けていくことができない。
世界の覇者としてのアメリカは、ひとつの絶対的価値観を押し通し、
数々の敵をつくってしまった。
かつては独裁者の国が多く存在したが、そのほとんどの独裁者はいなくなった。
残っているのは、中国、北朝鮮、ロシア、ベラルーシ、...。
これらの国々も、不自然な無理を重ね続け、あがきもがいているように見える。
もともと歴史は多様で多層的のあるものなのだから、
強引な力による歴史の画一化は、もう限界にきているのではないだろうか。
ポストコロナがいろんな形でささやかれ、叫ばれてもいる。
このコロナのパンデミックを機に、人知の及ばない見えない大きな波に、
私たちはいやおうがなく巻き込まれていくのであろう。
それは、大きなものから小さなものへのうねりなのだ。
ここまで書いて投稿する前にお風呂に浸かって、
ぽっと出てきたのは、『風の時代』。
【学びの時間】カレイドスコーピックな世界へ① 土から風へ - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)
ここに書いたことと、見事に一致しているなぁ!
アメリカ独立・産業革命からコロナパンデミックまでが「土」の時代、
これからが、「風」の時代なんだよね。
写真には、特に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮ったものを適当に貼っています。