【プチ哲学の時間】多層的な時間の流れを想う① 余談

今回も、『「里」という思想』(内山節著 新潮社)を読んで、

哲学の真似事をしてみようと考えた。

「歴史」や「時間の流れ」について書かれたところを読んで、

なるほどなと思ったことによる。

 

もともと、歴史=時間の蓄積は、多層的だった。

本来は、多層的であるはずの時間の流れや歴史が、

無理やり統合されてしまっているのが近代・現代社会であり、

世界で起こっている様々な問題は、その「歪み」ではないかと考えられるのだ。

 

本の内容を読みながら、ふと浮かんできたのは、この絵本。

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早速、図書館で予約して借りてきた。

本論に入る前の余談として、少しその内容に触れてみる。

 

騒々しい家禽(ニワトリ、アヒル、ガチョウ、クジャク、....)たちに、

幸せなふくろう夫婦が、なぜ幸せなのかを語って聞かせる。

  • あらゆるものが、一斉に冬の眠りから目を覚ます春。
  • たくさんの花が開く春。
  • 虫たちやチョウたちが花から花へと飛び回る夏。
  • 森は青々とし、なにもかもが輝く夏。
  • 木の葉が舞い落ちる秋。

それをじっくりを肌で感じてきたふくろうは、

地面が雪に覆われる長い冬を古巣で静かにに暮らす。

 

そんな幸せをふくろうは感じている。

ところが、お話が終わった途端、家禽たちは、

 「なんてまぁ、ばかばかしい!」

 「そんなことより、みせびらかしたり、食べたり、飲んだり、

  けんかしている方がまし」

といって、日々の喧騒に戻っていく。

 

このお話は、どうしても、現代社会にオーバーラップしてしまう。

 

さらに余談だが、このお話は、オランダ民話、ホイテーマ ぶん、

チェレスチーノ・ピヤッチ え、おおかわ ゆうぞう やく

福音館書店発行となっている。

 

たしかに、オランダには、長い冬と、心ときめく開放感のある春と夏があり、

秋はほんのわずかの間で、すぐに長い冬となるよね。

そしてオランダには、南部を除いて山がないよね。

これが日本民話だったら、もっと豊かな秋が表現されて、

四季の移ろいの豊かさがもっと表されていただろうなと思われる。

 

話を『「里」という思想』(内山節著 新潮社)に戻そう。

 

著者はこう言っている。

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私自身、かつては、歴史は未来のためにあるのだと思っていた。

過去はすでに乗り越えられたものだとみなしていた。

そうやって歴史は進歩していくのだと。

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著者は、自然の営みに魅了され、群馬県の上野村に住居を構えた。

その後、毎年晩秋に杉沢集落を訪れるようになって、

過去を再生しつづてきた人間たちの歴史を感じるようになった。

 

私の言葉で、著者の感覚を表現してみるとこうなるのではないだろうか。

  • 毎年、季節は移ろい、その中で人間は生きるための営みを続けてきた。
  • しかし、自然は気まぐれなだけに、毎年同じ営みということはない。
  • そうやって、時間が流れ、人類の歴史がつくられてきた。
  • 人類の歴史の大半は、その積み重ねできたものである。

 

ここまで来たら、もう一つ余談を付け加えたい。

この本からの一節を引用する。

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リンゴの木は、リンゴの木だけで生きているわけではない。

周りの自然の中で生かされている生き物なわけだ。

人間もそうなんだよ。

人間はそのことを忘れてしまって、

自分独りで生きているんだと思っている。

そしていつの間にか、自分が栽培している作物も、

そういうもんだと思い込むようになったんだな。

農薬を使うことのいちばんの問題は、

ほんとうはそこのところにあるんだよ。

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人間は、自然全体としての営みを見ることを忘れ、

自分に都合のよい一部のそれも効率のよさだけを見るようになってしまった。

 

どうして、そうなってしまったのだろう?