「いい子」についての散歩道を歩く前に、少し寄り道してみます。
今回は引用なしの、自分自身の思考の散歩道を行きます。
『時代が締め出す心』(青木省三著 岩波書店)
この本に書かれている内容で感じることがありました。
- 今の時代、価値観が画一化している。
- その価値観になじめなくても、逃げ場がない。
子どもたちは、こんな時代を生きているのではないか、
流されているのではないか、そう思えて仕方がないのです。
画一化の中で漂っているともいえます。
高度成長期、一億総中流と言われた時代からはすでに久しいけれど、
そのときに築かれたマインドや学力偏重の傾向は、
今も根強く残っていると感じます。
私が日々接してきたこともたちも、習い事や塾に忙しい毎日を送っています。
良い大学に入って、良い会社に入る。
その先には、必ずしも幸せはない、逆に苦しにが待っている、
その事例が数限りなくあっても、マインドは変わっていない、
いや、不安視しながらも、
その道を行かざるを得ないという風潮があるように思えます。
※「良い」には多様な「良い」があるはず。
決して画一化できるものではないはずなのですが....。
時代を担っていた第一次産業やものづくりから、
頭脳労働に多くの人が携わるようになってきました。
必ずしも頭脳労働とは言えないかもしれないけれど、
都心のオフィスに行けば、ほぼ全員がパソコンに向かって何やらやっています。
第一次産業やものづくりでは、
人付き合いやコミュニケーションが苦手な人でも、
一人でコツコツと仕事ができました。
しかし、オフィスで働くようになると、
通勤のストレスに挟まれたオフィスでの長い時間は、
会社の縦横の人間関係、接客、取引先とのやり取りなどなど、
気をつかうことばかりです。
週末には疲れて何もできない、そんな毎日、毎週が続いていきます。
子どものころから学校のあとに、塾に行ったり、習い事をしたり、
大学を目指したりで、どんな性格の子も、
同じ線路上を走らされているのではないでしょうか。
本来は、第一次産業やものづくりに向いている人でも、
苦手なオフィスワークをやらざるを得なくなっているとしたら、
精神的ストレスは生半可なものではありません。
さらに、特に都会では、自然がほとんどないですね。
だから、小さいころに野山で思いっきり遊んだ経験もありません。
これが養老孟司さんの言われる「都市化」の弊害なのでしょう。
田舎育ちの私自身、いま東京に住んでいるので、
特にそう感じてしまうのかもしれません。
その意味でも都市集中はやめて、本当の意味(特性を生かし、
同じように都市化するのではない)地方の活性化が必要です。
いろいろと考えても、これからの時代、
コミュニティの必要性、重要性に行きつきます。
時間には、「直線の時間」と「循環する時間」があります。
<Tip & Episode> 「循環する時間」と「自然の営み」 - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)
この「直線の時間」と「選抜社会」は終わりを迎えつつあるのでしょう。
<Tip & Episode> 「直線の時間」と「選抜社会」と - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)
この写真、今日職場に行く途中で撮ったものです。
過去・現在・未来が共存していると思えた道端の小さな自然でした。