感染症の専門家は、今やるべきことは、「危機感の共有」だという。
しかし、いまは、「政府の危機感のなさ」が、共有されてしまっている。
物の道理だと思う。
政府は、思惑だけで動いている。
自分たちが、事実に真摯に向き合うことなく、
何もしないどころが、逆のことをやっているのに、
自分たちを正当化しようとして、国民の安全安心から目を背けている。
新型コロナウイルスは、そんなことはお構いなしだ。
これまでの「自分たちの思惑だけのその場しのぎ」が、全く通用しない。
誠実さと謙虚さが、失われてしまっている。
この状態では、もう行き着くところまで行ってしまうだろう。
公助は全くあてにならないことは、もう誰もが知っている。
しかし、いまの若者の楽観論を聞き、人出の多さを見る限り、
多くの人が自助を強化することまではやっていないようである。
豪雨による河川の氾濫・土砂災害などのように、
自分の間近に危機が迫ってはじめて、本当に危機感が共有されるのである。
行き着く先は、大半の人がそれを経験するということなのだろうか。
では、なにができるのかを自分に問うてみる。
いまやっている、いややらないことを続けていくしかない。
それでも、毎日放課後子ども教室、ないしは学童クラブに通って、
多くの子どもたちやスタッフと接する仕事がある。
いわゆる、エッセンシャルワーカーであるともいえるので、
それは続けていくほかない。
逆に言うとそれ以外はやらないということでもある。
あとは、天に「感謝し、祈る」ことだけ。
私は、今週金曜日に2回目のワクチン接種を受ける予定。
しかし、それで安心というわけにはいかないのである。
ワクチン接種した人の中から無症状感染者が出てきて、
ひそかに感染を広げる可能性は否定できない。
こうした人々が、他者と濃厚接触したり、
マスク着用をやめたりした場合には、
その懸念がさらに強まるといわれているからだ。
エッセンシャルワーカーだけに、気を緩めると、
接する子どもや人たちに迷惑がかかってしまう。
政府はワクチン接種しか言っていないが、ワクチン接種が行き届けば、
はい、シャンシャンというわけにはいかない。
今回のコロナ禍は一息つくだろう。
しかし、社会全体のあり方や政治の姿勢が変わらないかぎり、
すなわち、対処療法ではなく、危機の原因の本質に迫らないかぎり、
新たな、より厳しい、さまざまな試練がつづいていくだろう。
『「人新世」の資本論』斎藤幸平著にこう書かれている。
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100年に一度のパンデミックによって、多くの人命が失われたし、
経済的・社会的な打撃も歴史に残る規模だった。
しかし、そうであっても、気候変動がもたらす世界規模の被害は、
コロナ禍とは比較にならないほど甚大なものになる可能性がある。
コロナ禍は一過性で、ささやかなものだったと、
気候変動に苦しむ後世の人々は振り返ることになるかもしれない。
そのように被害規模が違うといっても、
コロナ禍を危機の先行事例としてみておく必要がある。
気候変動もコロナ禍も、
「人新世」の矛盾の顕在化という意味で共通しているからだ。
どちらも資本主義の産物なのである。
(中略)
先進国において増え続ける需要に応えるために、
資本は自然の深くまで入り込み、森林を破壊し、大規模農場経営を行う。
自然の奥深くまで入っていけば、
未知のウイルスと接触機会が増えるだけではない。
自然の複雑な生態系と異なり、人の手で切り拓かれた空間は、
ウイルスを抑え込むことができない。
そうしてウイルスは変異していき、グローバル化した人と物の流れに乗って、
瞬間的に世界中に広がっていく。
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ボクたちミツバチは、世界中で姿を消しつつあるけど、
それは人間が作り出した有害なもので、
ミツバチの世界が、パンデミックのようになっているから。
そう言ってもいいんじゃないの。
それでも、まだまだ経済が優先されている。
ボクたちがいなくなると、人間の生きられなくなるんだよ。