横に置いたままになっていた
『「里」という思想』(内山節著 新潮選書)』を開いて、
しおりの挟んであったところ
" 第四章 グローバルな時間と私たちの仕事" を読んでみた。
著者の鋭い洞察があった。
引用に近い要約をして書いてみる。
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大量生産・大量消費で、物質的な豊かさが実現されたが、
労働自体は、はるかに味気なく、疲れるばかりのものになっていった。
かつては、労働のなかに楽しみや喜びもあり、
有益なものをつくっているという満足感もあったのに、
いまでは。労働は、生活や「出世」のための手段になってしまっている。
このような現実を前にしたとき、意見は二つに分かれた。
- もっと技術が発達すれば、人間は労働のある部分を機械に任せ、人間らしい労働だけに携われるようになる。
- 技術の発達は、労働の質を貧しくしつづけるだろうと考える。
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ここまでで思ったことは、私の今があるのは、
「はたらく目的」を考え始め、考え続けたことにあるということ。
「はたらく目的」でこのブログを検索すると、いくつもヒットする。
その最初にあったのが、会社では異例のあるイベントだった。
会社に頼らず自分を大切に、というメッセージを同僚に届けていたのだ。
同僚への置き土産① - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)
もう全く忘れていたものだった。
①~⑤まで読んでみたが、そんなことをしたんだなと、
いまさらながら、よくやったよねって思う。
それに、聞いてくれる若い人たちがいたというのも事実だった。
そして、あのころから想いは変わっていない。
いや、さらに深まっている。
この二つの意見をみると、私はここのところずっと1.だと思っている。
- 昔には戻れない。
- 科学技術の進歩は進んでいく。
- AIやロボットを否定しても始まらない。
だから、未来の人間は人間らしいはたらき方ができるぞ、
って思って生きていくのが大事だなって思う。
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20世紀の技術は生産のための技術であって、
人間の労働を豊かにしていく技術ではなかった。
さらに20世紀の終盤に入ると、新しいことに気づかされた。
労働のなかで、他の誰かと代替可能な人間であるばかりでなく、
生活のなかでも、
この消費世界を構成する代替可能なひとりの消費者に過ぎないということに。
ひとりひとりの人間が、かけがえのなさを失ってしまった。
生きているという感覚を低下させ、
現代というシステムのなかに組み込まれている自分を感じることになった。
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19世紀、ヨーロッパ社会の労働者の運動が起こったとき、
労働者を突き動かしたのは、賃金ということだけではなく、
「人間的な働き方をしたい」という想いだったといわれる。
彼らの頭にあった「人間的な働き方」とは、「職人的な働き方」だった。
- 働けば働くほど、技が身についていくような労働
- 確かな物づくりができる労働
- そのものづくりをとおして、自分の労働に誇りがもてる働き方
- 社会にとって有用なものを生産しているという自信
- 支え合う職人同士の仲間意識
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労働って、強いられるものというイメージがある。
幸いにも、私は、結構自分の好きなようにさせてもらった、
ありがたかったなと今でも思っている。
そもそも、「労」は、いたわるという意味もあるが、
- あれこれ心遣いをする。骨を折る。苦労する。
- 病気で苦しむ。気を病む。わずらう。
という意味だあるようだ。
これでは、働くが楽しいことにはならない。
本来は、「傍楽」なはずなんだけど。
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職業の選択の自由が保障されているにもかかわらず、
あらゆる労働のことを私たちは知ってはいない。
極端に述べれば、その内容を知らずに選択するのが労働だといってもよい。
しかも、労働の内容は変化していくから、その意味では、
たえず私たちは、みえない労働の世界と対峙していかなければならない。
人間は、労働という不確かな世界と関係を持ちながら、
自分の生きる社会をつくりだしているといってもよい。
こうして生まれた労働の社会が、
戦後の日本のサラリーマン社会だったのかもしれない。
どのような労働をするのかをよく知らないままに、
人々は職業を選択し、企業を選択する。
そして、気がつくと、いまの仕事をしている自分がいる。
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私もまさにこの路線を歩いてきたなって思っている。
それでも一応二つの願いはあった。
- 物づくりをするメーカーであること
- 海外に行きたいということ
その自分の想いで選んだ会社だったし、
実際には、商品企画や海外営業をやることができた。
おかげで、幸いなことに、歩いてはきたが走ってきたという感覚はない。
でも、「はたらく目的」に対する答えは、
「生活」や「出世」のための手段でしかなかったなと思っている。
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労働は企業というシステムのなかに組み込まれた一つの機能のようになり、
働いている者たちは、仕事によって享受する楽しさや喜びよりも、
はるかに強く疲ればかりを感じるようになっていた。
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現代の私たちは錯覚している、させられていると思っている。
大事なものは、会社じゃない、自分なのだ。
それを図で表現したものがこれだ。
同僚への置き土産⑤ - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)
会社勤めのときに、この発想を持てたのは。とてもありがたかった。
それは、「会社人から社会人へ」の行動のおかげで、
楽しいサード・プレイスを知ることができたから。
そんな私であったが、いまは、その当時の状況から大きく変化している。
ただ、確実にいえるのは、そのプロセスがあったおかげということ。
そのプロセスで生まれたご縁が深まっていまがある。
逆にいうと薄れたご縁もあるが、Facebookのおかげで、
一度だけ会った人とも、一期一会にははなっていないのである。
いまの、自分の世界を図で表してみた。
当時と同じように、自分が何かに属して、
そのしがらみのなかで生きているのではなく、
自分のなかに多様性があるイメージだ。
あくまでも、自分の意志で大切なことを選んでいるし、
やりたいと思うことをやっているのである。
この中に、「夢」を大きく書いてもいいのだが控えめにした。
点線の「コミュニティ」は、4年半前と変わっていない。
夢はコミュニティそのもので、「ここいまタウン」なのであるが、
いまだに点線の状態であるのも確かである。
しかし、そこに向かって着実に歩んでいると感じている自分がいる。
そう思える自分がいること、それは丸のなかにいる人たちのおかげである。
今年もまた、ありがとうございました。