『客観性の落とし穴』(村上康彦著 ちくまプリマー新書)に、
こういう言葉がありました。
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世界は統計(確率)によって支配されることになった。
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私が何度も書いてきている、健康診断の標準値もそうです。
偏屈な私は、そんなものに支配されたくないと思っているので、
よけいにこの言葉が気になります。
医療のことについても、以下の内容のことが書かれています。
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医療の世界は、
「エビデンス(根拠)」に基づく医療(ESM)が絶対的な価値をもつ。
これは、統計学的に病態を分析し、
統計学的に有効であると認められた治療法を選択する営みだ。
1991年にカナダの医師ゴードン・ガイアっとが提唱した考え方である。
(中略)
エビデンスによって有効な診断方法や治療法が整備されることには異論がないし、
私自身もエビデンスに基づく医療を選ぶ。
しかし、病の経験は、エビデンスに基づく選択だけでは語り切れない。
再発がんが進行しているので「急に具合が悪くなる」可能性があるから、
と緩和ケアを探すことを主治医から勧められた哲学者の宮野真生子は、
エビデンスに基づく医療において、
常に問題になるリスクについて次のように述べている。
「リスクと可能性によって、(がんが再発した)私の人生は、
どんどん細分化されていきます。
しかも、病と薬を巡るリスクはたくさんありますから、そのなかで、
よくない可能性が人生の大半の可能性を占めるように感じ、
何も起こらず「普通に生きてゆく」可能性は、
とても小さくなったような気がしています。
(中略)
でも、このリスクと可能性を巡る感覚は、やっぱりどこか変なのです。
おかしさの原因は、リスクの語りによって、
人生が細分化されていくところにあります。
そのとき患者は、
いま自分の目の前にいくつもの分岐ルートが示されているように感じます。
それぞれのルートに矢印で行先か書かれていて、
患者たちは、リスクに基づくよくないルートを避け、
「普通に生きていける」ルートを選び、慎重に歩こうとします。
けれど、本当は分岐ルートのどれを選ぼうと、
示す矢印の先にたどり着くかどうかはわからないのです。
なぜなら、それぞれの分岐ルートが一本道であるはずかなく、
どの分岐ルートも、そこに入ってしまえば、また複数の分岐があるからです」
エビデンスによって有効とされる治療を選ぶプロセスには際限がない。
病が進行していくプロセスのなかで、
効果が出る確率が高い治療法が選ばれることが多いだろう。
しかし、効率が高いといっても
「40%の人にはこの治療が有効であった」という意味であり、
残りの60%の患者には効かない。
常に数値をめぐって患者は、
「効かないかもしれない」と不安な状態に置かれることになる。
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冒頭の言葉は、もう少し詳しくはこうなっています。
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科学哲学者のイアン・ハッキングは、世界そのものが数学化したときに、
世界は統計(確率)によって支配されることになったと書いている。
(中略)
統計学が力をもつ現状は、自然と社会のアリアリティの在処が、
具体的な出来事から数字へと置き換わったことの象徴である。
当初、統計は、
世界のリアリティについてのある程度の傾向を示す指標とみなされていたが、
次第に統計が世界の法則そのものであると考えられるようになった。
統計は事実に近い近似値ではなく、事実そのものの位置を獲得するのだ。
先のハッキングはいう。
(中略)
「平均寿命」という単なる数字が、日本を構成する事実そのものとなる。
一人ひとりの日本人は、早く亡くなることも長寿のこともあるのだから、
「世界一の長寿国」というラベルが個人の余命を説明するわけではない。
ましてや、一人ひとりの高齢者が、
具体的にどのような暮らしをしているかを示すわけではない。
独居なのか、病院で寝たきりなのか、認知症なのか、
もしかしたら元気なのか、同じ90歳でもさまざまだろう。
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この春休みの時期に、私は、
グループホームに入っている母に会いに行ってきました。
同じ時に、奥さんは、実家に戻っていました。
認知症が進行中の母のためです。
私の母は落ち着いていますが、奥さんの母は、同居家族との関係も含めて、
いろいろと気をもむことがたくさんあります。
直面する現実は、統計上の数字がどっちを無効と関係ありません。
本を読んだり、ネットで調べたり、情報のインプットは欠かせません。
しかし、本当に信頼できるのは、それを自分でどう考え判断するかです。
そのためには、身近な人たちとのつながりや支え合いは欠かせません。
私の母の今は、広島の妹がいたからあります。
忘れてはいけないのは、私自身もやることはやってきたということです。
運よく、今のグループホームが見つかり、本当にお世話になっています。
義母については、まだまだこれからです。
自助だけでは何もできません。
地域包括センター、ケアマネージャー、グループホームは、公助です。
そういう施設については、いろんなニュースが流れてきますが、
私たちの場合は、本当にラッキーだったと思います。
公助もないと、安心して暮らしていくことはできません。
公助の質が悪かったりするのは、いくつか理由があると思います。
私は、すべてがお金儲けの社会構造になっているということと、
もう一つが、特に都会では「共助」が失われてしまったからだと思います。
外で、見知らぬ子どもにうかつに声もかけられないのですから。
今の世の中を見ていると、頭のいい人々のマインドが、
「いかに楽して金を手に入れるか」になったとしか思えないようなことが、
日常茶飯事になってしまった言えるでしょう。
隙があったら、だまそう、むしり取ろうとする社会になってきた、
そんな憂いはますます募るばかりです。
今読んでいる本に、日本では「共助」が、
世界的に見ても弱いと書かれていました。
特に都会では、何かあっても、信頼できるものがない、
助けてもらいえないという現実があります。
やはり、これからのポイントは「共助」、
支え合うコミュニティだと思います。
それができると、
信頼できるもので満たされた生活ができるようになるでしょう。