『生きるぼくら』(原田マハ著 徳間文庫)を読みました。
この小説に、息子についての父親のつぶやきがありました。
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大学受験でも就職活動でも、
一度失敗したらもう取り返しがつかないと尻ごみしてしまう。
だから、思い切ってジャンプすることができないんだ、あいつは。
失敗を繰り返してこそ、成長できる。
自分が傷ついてこそ、人の痛みを理解できる大人になれるのに。
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これはステキな小説でした。
人生(主人公の名前)は、いじめ・ひきこもりから、一つのきっかけを得て、
蓼科のおばあちゃんの家にいきました。
腹違いの妹と出会い、家族というものを感じ、人間らしい生き方、
彼の本当の人生を取り戻していくのです。
かつては、ケータイがなくては生きられないという生活を送っていました。
おばあちゃんが誤って、そのケータイを池に落としてしまったのです。
それを拾い上げたものの、人生は自らの意思で池に投げ込み、
それから、人生の人生はイキイキしたものに変わっていきました。
本来、自然のものである人間が、
自然の中で、生身の人たちと知り合い成長していく、清々しい物語です。
最後には、上記の都会にかぶれた息子も、
人生たちの生き方を見て、新たな道を歩み始めました。
この本の大半は、電車の中で読みました。
しかし、電車の中は、とても狭く閉ざされた世界のように感じられるのです。
以下、あくまでも、勝手な感覚で書いています。
今日もまた、ほぼ8割の人たちが電車の中で、
スマホを見たりいじったりしていました。
1割の人が寝ていて、残りの1割が本を読んだり、ただそこにいました。
スマホを見ていない人のほとんどが、高齢の人たちです。
ホームに降りても、街中を歩いても、
ながらスマホをしている人のなんと多いことか。
そんなことに毎日憂いを抱いている自分がいます。
ここまで書いて、養老孟子さんの「都市化」という言葉を思い出しました。
ネットに、インタビュー記事がありました。
養老孟子さんの二つの都市化についての言葉があります。
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「都市化するということは自然を排除するということです。
脳で考えたものを具体的に形にしたものが都市です。
自然はその反対側に位置しています」
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「都市に住む人が自然を排除しようとするのは、
感覚を通して世界を受け入れないからです。
意味を持った情報を通して世界を理解するんですね。
だから意味のないもの、分からないものを徹底排除しようとするんですよ。
自然に意味なんてないからね。
都市の中の公園は、完全に意味を持った人工物です」
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取材者は、こうまとめています。
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自然と都市、感覚と理屈、身体と意識、
前者がどんどん駆逐され、後者が支配したこの世の中を、
養老さんは「世界が半分になっちゃった」と表現していました。
だから逃げ場がなく、世界が狭い。
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私は思います。
スマホの世界はもっと狭い。
小さな画面の中だけ。
まわりに何があろうと、誰がいようと、自分はその中だけにいる。
見ているのは、ネットでつながった相手の書いた言葉、
もしくは無限に広がるネットの世界。
だけど、決してその世界は広いとは言えない。
それらは、一方的な文字情報ないしは、画像や動画。
ケータイの時代には、電話で直接話していた。
しかし、今はそれがない。
コミュニケーションが一方通行になってしまった。
それは、スマホの中の都市化された閉ざされた世界、
それに囚われているがゆえに、
使う人が、自分の世界に閉じこもった行動しかしていない、
としか言いようがないのである。
「世界は狭い」というのは、グローバル化で使われた言葉です。
しかし、いま、ひとりひとりが生きる世界が小さくなってしまっている、
そう思えるのです。