【学びの散歩道】逃げ場のない小さな世界

『生きるぼくら』(原田マハ著 徳間文庫)を読みました。

 

この小説に、息子についての父親のつぶやきがありました。

------------------------------------

大学受験でも就職活動でも、

一度失敗したらもう取り返しがつかないと尻ごみしてしまう。

だから、思い切ってジャンプすることができないんだ、あいつは。

失敗を繰り返してこそ、成長できる。

自分が傷ついてこそ、人の痛みを理解できる大人になれるのに。

------------------------------------

 

これはステキな小説でした。

人生(主人公の名前)は、いじめ・ひきこもりから、一つのきっかけを得て、

蓼科のおばあちゃんの家にいきました。

腹違いの妹と出会い、家族というものを感じ、人間らしい生き方、

彼の本当の人生を取り戻していくのです。

かつては、ケータイがなくては生きられないという生活を送っていました。

おばあちゃんが誤って、そのケータイを池に落としてしまったのです。

それを拾い上げたものの、人生は自らの意思で池に投げ込み、

それから、人生の人生はイキイキしたものに変わっていきました。

本来、自然のものである人間が、

自然の中で、生身の人たちと知り合い成長していく、清々しい物語です。

最後には、上記の都会にかぶれた息子も、

人生たちの生き方を見て、新たな道を歩み始めました。

 

この本の大半は、電車の中で読みました。

しかし、電車の中は、とても狭く閉ざされた世界のように感じられるのです。

 

以下、あくまでも、勝手な感覚で書いています。

今日もまた、ほぼ8割の人たちが電車の中で、

スマホを見たりいじったりしていました。

1割の人が寝ていて、残りの1割が本を読んだり、ただそこにいました。

スマホを見ていない人のほとんどが、高齢の人たちです。

ホームに降りても、街中を歩いても、

ながらスマホをしている人のなんと多いことか。

そんなことに毎日憂いを抱いている自分がいます。

 

ここまで書いて、養老孟子さんの「都市化」という言葉を思い出しました。

ネットに、インタビュー記事がありました。

養老孟子さんの二つの都市化についての言葉があります。

-----------------------------------------

「都市化するということは自然を排除するということです。

 脳で考えたものを具体的に形にしたものが都市です。

 自然はその反対側に位置しています」

------------------------------------------

「都市に住む人が自然を排除しようとするのは、

 感覚を通して世界を受け入れないからです。

 意味を持った情報を通して世界を理解するんですね。

 だから意味のないもの、分からないものを徹底排除しようとするんですよ。

 自然に意味なんてないからね。

 都市の中の公園は、完全に意味を持った人工物です」

-------------------------------------------

 

取材者は、こうまとめています。

-----------------------------------------

自然と都市、感覚と理屈、身体と意識、

前者がどんどん駆逐され、後者が支配したこの世の中を、

養老さんは「世界が半分になっちゃった」と表現していました。

だから逃げ場がなく、世界が狭い。

-----------------------------------------

 

私は思います。


スマホの世界はもっと狭い。

小さな画面の中だけ。

まわりに何があろうと、誰がいようと、自分はその中だけにいる。

見ているのは、ネットでつながった相手の書いた言葉、

もしくは無限に広がるネットの世界。

だけど、決してその世界は広いとは言えない。

それらは、一方的な文字情報ないしは、画像や動画。

ケータイの時代には、電話で直接話していた。

しかし、今はそれがない。

コミュニケーションが一方通行になってしまった。

 

それは、スマホの中の都市化された閉ざされた世界、

それに囚われているがゆえに、

使う人が、自分の世界に閉じこもった行動しかしていない、

としか言いようがないのである。

 

「世界は狭い」というのは、グローバル化で使われた言葉です。

しかし、いま、ひとりひとりが生きる世界が小さくなってしまっている、

そう思えるのです。