【学びの時間】「居場所」から「出場所」へ

『「居場所がない」人たち』(荒川和久著 小学館新書)

引き続き、この本から学びます。

 

社会学者ジグムント・バウマンは、かつてのソリッド社会から、

現在は、リキッド社会に変わってきたと言います。

-------------------------------------------

ソリッド社会では、確かに不自由な面はあった。

行動も一定の枠内という制限がある。

しかし、そのかわり、進むべき安全な道が提示されていて、

社会が守ってくれていた。

リキッド社会では正反対に、人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た半面、

常にその選択に対して自己責任を負うことになる。

それは個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくなる。

 

それは「個人化する社会」であり、

非婚化や離婚の増加は「選択の自由を個人が得た」結果でもある。

何も考えずに受け身のままで用意される「所属するコミュニティ」

というものはなくなりつつある。

---------------------------------------------

 

「所属するコミュニティ」がなくなり、

「個人化する社会」の中にある私たちは、どうすればよいのでしょう?

 

著者は「接続するコミュニティ」を提案しています。

---------------------------------------------

所属の有無に関係なく、私たちは接続することでのコミュニティを作れるはず。

たとえば、趣味のコミュニティなら、趣味を行うときだけ、

そのメンバーと接続している。

確固たる「所属するコミュニティ」だけの中にのみ自分がいるのではなく、

時と場合に応じて、柔軟に接続するコミュニティを組み替えて行っているはず。

身体はひとつしかないわけで、

「所属」を前提をすると物理的にそれを増やすことは困難である。

 

「所属するコミュニティ」が「居場所」としての安心だとするならば、

「接続するコミュニティ」は「出場所」としての刺激である。

「人と会う 人と話す」という行動も、それ自体が「出場所」になる。

まったく知らない赤の他人との刺激のつながりの結果として、

自分に刺激をもたらす場合も多い。

知らない相手だからこそ気軽に話ができる場合もある。

 

「所属するコミュニティ」の中では、周りは見知った顔だし、

自分のこともみんながわかってくれている関係性だったと思う。

それが、ひとつの安心だったわけだが、

「接続するコミュニティ」では周りは誰も知らないし、

誰も自分のことは知らないという「無の関係性」の状態からら始まる。

そうした「無」の状態で人と対峙し、話を聞いたり対話をする。

それが結果として、自分の中の自分を勝手に活性化してくれるものになる。

どこかのコミュニティに所属することで、

安心な居場所を求めることだけに固執するのではなく、

接続点を多く持ち、自分自身の「出場所」を作っていく。

その「出場所」において、誰かと出会ったり、何かと触れ合うことが、

結果的に自分自身の内面に積み重なっていく。

私はこれをインサイドコミュニティと呼んでいるが、

それが構築できるということは、

自分の中に新しい自分を生み出したという証であり、

それこそが精神的自立そのものなのである。

------------------------------------------

 

居場所という響きは心地よいですね。

居場所で思い起こされるのは、「最高の居場所」です。

「会社」という居場所を離れるにあたって、

私が求めたのは、多くの「居場所」でした。

いろんなサード・プレイスに行きました。

行くことが楽しかったからです。

それは、ここでいう「出場所」だったわけです。

 

いまから思えば、「出場所」を増やしていくうちに、

結局は、「所属するコミュニティ」を求めていたのかもしれません。

行き着いた安心できる場所が、「最高の居場所」であり、

その関連の「ファシリテーション塾」だったわけです。

最高の居場所については、結局、

その組織を運営することに労力が費やされていきました。

そしてそこを離れることのになったのです。

時の流れ - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)

 

いまは、主に3つの「所属するコミュニティ」を持っています。

  • 仕事である「放課後子ども教室」
  • 社会貢献の「ドリームマップ」の仲間
  • 市民活動団体の「i-ze(いーぜ)」

仕事を除けば、

あとの2つは必要に応じて出かけていく「出場所」と言えると思います。

仕事も、全く別物ではなく、Solのやりたいことの枠内にあるのです。

一番の居場所である「i-ze(いーぜ)」は、それ自体が、

多くの「出場所」を求めて活動をしているのです。

「接続するコミュニティ」そのものなのです。

i-ze(いーぜ) ワクワクを大切にするちいさな勉強ば (peraichi.com)

 

そこから思えるのは、居場所というのは、

所属する場所という意味ではないということです。

それぞれが、ここにいていいんだと思える場所、

人とゆるくつながることができる場所、

居心地がいい場所、楽しい場所をいうのだと思います。

物理的な場所である必要はなく、

心地よさを感じられる人と人とのつながりともいえます。

 

ここでいう「出場所」の考え方は、

ステキな居場所を、心の向くままに見つけていくということなのでしょう。

でも、結局は、居場所は出場所であり、

出場所は居場所であるということでしょう。

出場所的な居場所がたくさんあると楽しいと思います。

 

ここまで、今日の午前中までに書いていて、夕方投稿しようと思っていて、

帰ってきたら、「最高の居場所」からメールが届いていました。

『今の私たちの居場所』 - Google ドキュメント

これまでやってきたことが、運営・参加してきた人たちの「居場所」となり、

これからの「出場所」を増やす原動力になったとしたら、

それで十分ではないかと思いました。

 

長い間、お楽しみさまでした。

ありがとうございました。

 

写真に意味はありませんが、

リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、

散歩中に撮った写真を適当に貼っています。