『「居場所がない」人たち』(荒川和久著 小学館新書)
引き続き、この本から学びます。
社会学者ジグムント・バウマンは、かつてのソリッド社会から、
現在は、リキッド社会に変わってきたと言います。
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ソリッド社会では、確かに不自由な面はあった。
行動も一定の枠内という制限がある。
しかし、そのかわり、進むべき安全な道が提示されていて、
社会が守ってくれていた。
リキッド社会では正反対に、人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た半面、
常にその選択に対して自己責任を負うことになる。
それは個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくなる。
それは「個人化する社会」であり、
非婚化や離婚の増加は「選択の自由を個人が得た」結果でもある。
何も考えずに受け身のままで用意される「所属するコミュニティ」
というものはなくなりつつある。
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「所属するコミュニティ」がなくなり、
「個人化する社会」の中にある私たちは、どうすればよいのでしょう?
著者は「接続するコミュニティ」を提案しています。
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所属の有無に関係なく、私たちは接続することでのコミュニティを作れるはず。
たとえば、趣味のコミュニティなら、趣味を行うときだけ、
そのメンバーと接続している。
確固たる「所属するコミュニティ」だけの中にのみ自分がいるのではなく、
時と場合に応じて、柔軟に接続するコミュニティを組み替えて行っているはず。
身体はひとつしかないわけで、
「所属」を前提をすると物理的にそれを増やすことは困難である。
「所属するコミュニティ」が「居場所」としての安心だとするならば、
「接続するコミュニティ」は「出場所」としての刺激である。
「人と会う 人と話す」という行動も、それ自体が「出場所」になる。
まったく知らない赤の他人との刺激のつながりの結果として、
自分に刺激をもたらす場合も多い。
知らない相手だからこそ気軽に話ができる場合もある。
「所属するコミュニティ」の中では、周りは見知った顔だし、
自分のこともみんながわかってくれている関係性だったと思う。
それが、ひとつの安心だったわけだが、
「接続するコミュニティ」では周りは誰も知らないし、
誰も自分のことは知らないという「無の関係性」の状態からら始まる。
そうした「無」の状態で人と対峙し、話を聞いたり対話をする。
それが結果として、自分の中の自分を勝手に活性化してくれるものになる。
どこかのコミュニティに所属することで、
安心な居場所を求めることだけに固執するのではなく、
接続点を多く持ち、自分自身の「出場所」を作っていく。
その「出場所」において、誰かと出会ったり、何かと触れ合うことが、
結果的に自分自身の内面に積み重なっていく。
私はこれをインサイドコミュニティと呼んでいるが、
それが構築できるということは、
自分の中に新しい自分を生み出したという証であり、
それこそが精神的自立そのものなのである。
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居場所という響きは心地よいですね。
居場所で思い起こされるのは、「最高の居場所」です。
「会社」という居場所を離れるにあたって、
私が求めたのは、多くの「居場所」でした。
いろんなサード・プレイスに行きました。
行くことが楽しかったからです。
それは、ここでいう「出場所」だったわけです。
いまから思えば、「出場所」を増やしていくうちに、
結局は、「所属するコミュニティ」を求めていたのかもしれません。
行き着いた安心できる場所が、「最高の居場所」であり、
その関連の「ファシリテーション塾」だったわけです。
最高の居場所については、結局、
その組織を運営することに労力が費やされていきました。
そしてそこを離れることのになったのです。
時の流れ - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』 (hatenablog.com)
いまは、主に3つの「所属するコミュニティ」を持っています。
- 仕事である「放課後子ども教室」
- 社会貢献の「ドリームマップ」の仲間
- 市民活動団体の「i-ze(いーぜ)」
仕事を除けば、
あとの2つは必要に応じて出かけていく「出場所」と言えると思います。
仕事も、全く別物ではなく、Solのやりたいことの枠内にあるのです。
一番の居場所である「i-ze(いーぜ)」は、それ自体が、
多くの「出場所」を求めて活動をしているのです。
「接続するコミュニティ」そのものなのです。
i-ze(いーぜ) ワクワクを大切にするちいさな勉強ば (peraichi.com)
そこから思えるのは、居場所というのは、
所属する場所という意味ではないということです。
それぞれが、ここにいていいんだと思える場所、
人とゆるくつながることができる場所、
居心地がいい場所、楽しい場所をいうのだと思います。
物理的な場所である必要はなく、
心地よさを感じられる人と人とのつながりともいえます。
ここでいう「出場所」の考え方は、
ステキな居場所を、心の向くままに見つけていくということなのでしょう。
でも、結局は、居場所は出場所であり、
出場所は居場所であるということでしょう。
出場所的な居場所がたくさんあると楽しいと思います。
ここまで、今日の午前中までに書いていて、夕方投稿しようと思っていて、
帰ってきたら、「最高の居場所」からメールが届いていました。
これまでやってきたことが、運営・参加してきた人たちの「居場所」となり、
これからの「出場所」を増やす原動力になったとしたら、
それで十分ではないかと思いました。
長い間、お楽しみさまでした。
ありがとうございました。
写真に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。