Unexamined Assumption = 無自覚の前提?

チェンジ・ザ・ドリームのコンテンツの中に出てくる

Unexamined Assumptionは、

そこでは「無自覚の前提」として訳されている。

辞書で見れば、吟味されていない想定だし、

要は、検証されていない思い込みといえる。

 

個人の意見というのは、そもそも、多くがこの思い込みだろう。

私も数多くの意見を言ってきたし、書いてきた。

自分が正しいと思っていること、普段感じていることなのだが、

やはり、それは、思い込みと言わざるを得ない。

 

議論するとき、相手もたぶんそうだと思う。

お互いに自分が正しいことを主張し、

相手の言うことを聞こうとしなければ、意見が感情に変わる。

すなわち、意見の否定が、人格の否定に変わってしまう。

そうなれば、もう相容れる余地はほとんどない。

これが、世のなかで起こっている多くのことではないだろうか。

それは、単純化して言えば、競争社会だから。

 

議論という言葉を使うと、往々にしてそうなってしまう。

相手を尊重し、意見の違いを尊重し、

そこから生まれてくるものを受け止め、

大事にする気持ちが必要なんだと思う。

 

これもまた意見(unexamined assumption)と言えるのかもしれないが、

対話ができる、そのことを大事にしていきたいという気持ちは強い。

 

自分の思っていることを言うことは大切。

それが出せる場が、安心安全な場。

大人にも、子どもにも言えることは、それぞれが、

そんな場を日常持っているだろうか?ということ。

 

私個人的には、そんな場に参加するだけではなく、

ちいさな場でも、数多くそれをつくっていきたいと思っている。

 

それってどういうことかな?

 

今すでにやっていることがある。

そして、たぶんこれからやっていくこともあるだうろ。

それは、タイミングであり、ご縁であり、神さまの思し召しなのだろう。

f:id:solcafe:20191211110535j:plain