雑草という植物はないのと同じく、害虫という虫も存在しない。
以下、『ニンジンの奇跡』赤峰勝人著からの引用
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その土地にもともといて、豊かな命をはぐくみ、土に返って、
また次の世代に新しい命をつないできた草や虫や菌たちに、
「雑草、害虫、バイ菌」という勝手な名前を付けたのはどこの誰でしょう。
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「傲慢」の「傲」という字は、「人が土から放れる」と書きます。
まさに土を忘れて、農薬や化学肥料に頼りすぎていたのです。
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目に見える人間の損得で、優劣のないものにレッテルを貼っているのが、
人間のエゴにほかならない。
自然を目に見えるところで判断する傲慢さがここにある。
世の中にはざまざまな「問題」がある。
この「問題」という捉え方自体がそもそも、
かなり多くの「問題」においては、
― たとえば、問題児 ―
見えるものしか見ていないからだともいえる。
いわゆる「問題」を、その大小にかかわらず、
「単独」では解決することは困難である。
「単独」というのは、
- ひとりの人間では解決できない
- ひとつの問題にフォーカスしただけでは解決できない
ということ。
世の中単独で存在しうるものは何もなく、
すべてはつながっているから、
さまざまな「問題」も根っこから解決するのは容易ではない。
私は、いま思っていることがある。
それは、ここしばらくずっと、
- 学童保育に通い
- ドリームマップ授業を小中学生に届け
- しつけや子どもの成長のあり方についての本を読み
- 12月2日の研修に接したり
そんな経験から出てきたことだと思っている。
いま、私たちが直面しているさまざまな問題は、
単純化して言ってしまえば、
- 見えるものしか見てこなかった
- 見えるものだけで判断し対処してきた
ことで起こっているのではないだろうか。
そして、いま、子どもをとりまくさまざまな問題や事件は、
決して、子どもが悪いのではないと思っている。
子どもはあくまでも被害者だということ。
なぜ、そうなったのか?
それは、過去からのつながりから生まれたことだと思う。
- 今の子どもたちの「問題」は、その親たちの「問題」
- その親たちの「問題」は、そのまた親たちの「問題」
つまり、私の年代以上のシニアたちのこれまでの生き方にまで
さかのぼって考える問題だと思っている。
それは、社会の問題であり、価値感の問題であり、
結局は、ひとりひとりが作り上げてきた問題だから、
ひとりひとりが意識を変えて、考えて行動すれば、
解決に近づくはずである。
結局は、個人ベースでの小さな姿勢から変えていくしかなさそうだ。
最終的には、そんな3世代が集い、つながるコミュニティが形成され、
それが活性化していけば、
見えないものを大切にする社会となっていくのではないだろうか。