『<叱る依存>がとまらない』(村中直人著 紀伊国屋書店)
については、20日近く前に書いています。
【学びの散歩道】子どもたちの将来は大丈夫なのだろうか?(81) 結果を生まない同じことの繰り返し① - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』
「叱る」は叱る側の論理です。
叱られる側には、ネガティブな感情が生まれます。
叱る側は満足し、叱られる側は、萎縮する感じです。
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悪いことをした人に罰を与える「処罰感情の充足」もまた、
人間にとって非常に魅力的な報酬の一つである。
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つい物事に批判的な態度を取ってしまうのは、
それが、魅力的な報酬の一つだからなのでしょう。
※報酬には、生理的報酬、学習的報酬、社会的報酬がある。
私が嫌いな言葉「しつけ」のついても触れられています。
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ネガティブ感情を駆使して大人が子どもを支配する状況は、
「しつけ」と「叱る」や「体罰」を安易に結びつけることで、
より悪化してしまうでしょう。
子どもの教育のためだと考えることで、
自分の行為を容易に正当化できるからです。
実際問題,
「叱らないのはしつけの放棄だ」
「しつけのためには時に体罰が必要だ」
などの発想は、いまだに社会のいたるところに存在しています。
たとえば、2020年に厚生労働者が実施した
15歳から75歳の男女5,000人のうち体罰を容認する考えを持つ人が、
約4割(40.2%)もいることや、18歳以下の子供を育てている5,000人のうち、
半年以内に体罰を与えた人が3人に1人(33.5%)いることが報告されています。
これは、体罰のデータですが、しつけのためには、
子どもを強く叱ることに対しても肯定的であろうことは、容易に想像できます。
「しつけ」と「叱る」や「体罰」を結びつける価値観は、
まだまだ根強いようです。
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体罰を容認する人の割合が、こんなにも高いのかと驚きます。
体罰は、体罰を加える側の論理で、
思った通りにしない餌食となる人がそこにいることで、
憂さ晴らしをしているとしか考えにくいものです。
イライラのはけ口となる叱られる側は、たまったものではありません。
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<叱る依存>が発生した場合、
第一の被害者はどう考えても「叱られる人」です。
彼らは本来の「学び機会」や「のびのびと生きる機会」を奪われ、
ただひたすら目の前の苦痛から逃れることに心が占拠されてしまいます。
しかも、その影響が、長期にわたって続くのです。
「叱られる人」にとっては、悲劇と言ってもよい状況です。
けれど「叱る人」の主観的な体験は違います。
叱る人にとって、被害者は自分自身であり、
「叱られる人」こそが加害者だと感じる逆転現象が起きるのです。
とても不思議に思われるかもしれませんが、叱る人が
「状況の定義権」を持っている権力者であることを思い出してください。
それは、その場において、
「何が正しい」「あるべき姿」なのかを決める権限です。
その権限があるからこそ、自分は「正しいこと」を主張し、
状況を「あるべき姿」にしようとする課題解決者なのだと
感じるようになるのです。
すると叱る人にとって、問題の責任は、
何度言っても同じことをくり返して困らせる
目の前の叱られる人にあることになります。
「私は努力している。悪いのはこの人だ」
叱ることがやめられなくなっている人は、
無意識のうちにこのような発想になっていることが多いのです。
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本来は、叱るというのは、勇気と覚悟が必要なことだと思います。
なぜなら、相手の行為や言動を叱るということは、
自分は、そんなことはしないということだからです。
しかし、本当に、自分はそんなことはしないと言い切れるのでしょうか?
叱るは、主に大人が子どもを叱る、あるいは、上司が部下を叱るというふうに、
上下関係がはっきりしている場合に限られます。
それは、上位にある人の気に入らないことを、その人がしているから、
「叱る」が発出するのだと思います。
子どもを叱るこのとできる立場にある私は、日々そのことで葛藤しています。
写真に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
手元にあった写真を適当に貼っています。