『世界は贈与でできている』(近内悠太著 株式会社ニュースピックス)
この本、私のような読者にとっては、中だるみがありますが、
すごく示唆に富むメッセージが書かれていました。
中だるみというのは、哲学的・観念的・学問的で、
現実的で具体的な内容ではなかったからです。
いまの私は、そういうもの、いわゆる学問的な内容が苦手です。
心に響いてくるものは、そこには人が存在しているからなのです。
そうは言うものの、この本、久しぶりに出会った
新鮮な感覚を与えてくれるステキな本でした。
贈与というのは、贈与税の贈与とは違い、物理的なプレゼントとも違います。
ここでいう贈与とは、こう定義されています。
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人が必要としているにもかかわらず、お金で買うことのできないもの、
およびその移動
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「贈与」という言葉は、硬いイメージがありますが、
ここで定義されているもの、仮に「贈与」と呼んでいるものは、
「愛」そのものではないかと思えます。
贈与は打算ではなく、自分がもらっていることに気づくことから始まるのです。
- 贈与は受け取ることなく開始することはできない。
- 贈与の気づきこそがすべての始まり。
- 贈与は計算不可能。
贈与は計算するものではないけれど、こういうことなのです。
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「私」がこれを「誰か」に与えると意識したとたんに、
「与える私」「受ける他人」「与えられるもの」について、
なんらかの「計算的思考」が働く。
たとえば、私はかわいそうな他人に何かを与えて彼を喜ばせてあげるのだ、
そうすることで、私はある種の満足を得ているのだと感じる。
このとき人は快楽と満足を事実上は「計算」しているのであり、
その瞬間に、快楽ないし満足を見返りとして受け入れているのである。
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以下に書かれていることは、私にはよ~くわかります。
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大人になると新しい友人を作ることが難しくなってしまう。
どうして「仕事の知り合い」とは友人関係になりにくいのか?
それは、互いを手段として使うから。
「ビジネスパートナー」とは、
利害が一致している限りでの関係や共通の目的をもった者同士の
(一時的な)協力関係である。
ビジネスの文脈では、
相手に何かをしてほしかったら、対価を差し出すしかない。
相手が認める対価を持ち合わせていなかったり、
「借りを返す」見込みが薄い場合などでは、
協力や援助を取り付けることは難しくなる。
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どうしてそうなるのでしょうか?
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「交換の論理」に支配されているから。
「交換の論理」とは、「割に合うかどうか」という観点のみにもとづいて、
物事の成否を判断する思考法で、「差し出すもの」と、
その「見返り」が等価であるようなやりとりを志向し、
貸し借りなしのフラットな関係を求める。
交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱う。
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それゆえに、
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贈与がなくなった世界(交換が支配的な社会)には、信頼関係が存在しない。
信頼は贈与の中からしか生じない。
交換の論理を採用している社会(贈与を失った社会)では、
誰かに向かって「助けて」ということが原理的にできなくなっている。
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こういうことなのです。
これって、「いまの世の中」を言い表している、そう思えます。
「助けて」というのは、甘えではありません。
- 「甘える」本当は自分でできることを他人に頼むこと
- 「頼る」自分ではできないことを他人に頼むこと
日本や世界のトップを眺めて見たときに、
どれだけ教養のある人がいるでしょうか?
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どれだけ多くを知っていたとしても、それだけでは教養とは言えません。
手に入れた知識そのものが贈与であることに気づき、
そしてその知見から世界を眺めたとき、
いかに世界が贈与に満ちているかを悟った人を教養ある人と呼ぶのです。
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- 贈与は気づきから始まる。
- いかに世界が贈与に満ちているかを悟る。
これは、「感謝」を知るということだと、私は思います。
人は、「自分にとってあたり前のことに感謝する」ことを知ってはじめて、
他の人に、お金では買えないものを差し出すことができるのだと思います。
「愛」ということからほど遠いと思える自分自身が感じるのは、
この「気づき」、すなわち「感謝」を知ることが、
「愛」だと思えば、ほっとすることができます。
すなわち、それは、多くの人から「贈与」された「愛」によって、
今の自分があると感じられることだからです。