「ふつう」って何?と考えても、わかりません。
なぜなら、人それぞれの「ふつう」が違うからでしょう。
辞書ではこうなっています。
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[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。
それがあたりまえであること。また、そのさま。
「今回は普通以上の出来だ」「普通の勤め人」
「朝は六時に起きるのが普通だ」「目つきが普通でない」
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英語で「ふつう」に、ぴったりする言葉はなさそうなんです。
思い浮かぶのは、normal、ordinary, usualなどですが、
微妙に違う気がします。
normalは、正常と言った方がいいし、通常とも言えます。
usualは、いつもの、普段のという表現ですし、
ordinaryも平素の、ざらにあるという感じです。
こんなサイトがありました。
6つもある!「普通」の英語|対義語や関連表現も同時に習得 | マイスキ英語 (mysuki.jp)
このサイトを見て感じたのが、
私自身が最近の「ふつう」に毒されているかも?ということです。
私が好きではない「KY」ということば、ネガティブなイメージです。
「KY」は「ふつう」にすることなのでしょうか?
もともと、「普通」という言葉には、このサイトにあるように、
さまざまな意味で使われていた気がします。
しかし、「ふつう」とひらがなで書くだけで、
嫌な感じがしてくるのは、どうしてでしょうか?
「ふつう」ということばは、
「ふつうではないもの」を排除している感じがします。
世の中には、「ふつう」でないと思われ、思うことで、
苦しんでいる人がどれだけたくさんいるでしょうか?
子どもの「ふつう」について、この本が語ってくれています。
世の中には、本筋でない、本質でないところでのおかしな掟や縛りがありますね。
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「体操服が着られない」子がいる。私服を自宅以外で脱げないから。
体操服に着替えないと体育の授業に参加できない。
体育の授業の目的は?
体を動かして学ぶ。体操服に着替えることじゃない。
中学校だと「制服を着る」のが「ふつう」。
だから着られない子はダメと言われてしまう。
それだけで中学校に行けない子がたくさんいる。
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こんなことやっている場合ではないでしょ。
そんな学校は、今時あるのでしょうか?
少なくとも、私が通っている放課後子ども教室のある学校は、
体操服を忘れ(?)ても、一緒に体操しています。
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大空小学校には、ほかの学校で通学できなかった子が、
開校から9年間で全国から50人くらい転校してきた。
みんな当たり前のように学校に通ってくる。
なんでいままで学校行けなかったのか?
子どもたちは言う。「空気が違う」と。
かつては、「刑務所」「牢屋」「監獄」だった。
- 教室から勝手に出られない。大空小の子は、しんどくなったら自由に教室を出る。これが「ふつう」。
- 教室のなかで勝手に動くことを禁じられて、椅子にじっと座れと叱られる。
- 教室で、「おれ嫌やな」「それええな」と思ったことをしゃべると叱られる。
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大空小学校が特別なのでしょうか?
私が知る限り、一校を除いて、とってもお利口な子が多いように思えます。
その一校は、6年生なのに、好き勝手な感じでした。
大空小学校には、いわゆる高速というものがありません。
唯一、「自分がやられて嫌なことは人にしない」というルールだけ。
こんなに自由な大空小学校でも、一人一人を尊重した関わりを続けていくと、
学年が上がるごとに、教室から脱走する子は少なくなり、
6年生になったときには立派なリーダーになっているようです。
どうして大空小学校ではできるのか?
それは、そこには保護者がいないのです。
一般的に保護者と言われている人は、サポーターと言われます。
学校には、サポーターの人はいつ来てもいい、
授業中でも、自分の子ではないよその子どもに関わっていい、そんな校風。
この、「よその子」が味噌で、自分の子は見ない約束です。
先生が一人で頑張るのではなく、苦しくなったら誰にでも頼れる校風。
開かれた学校、子どもは、担任の教師に縛られることなく、
ほかの教員、サポーター、地域の人たちに見守られています。
だから「みんなの学校」と言われるのです。
ここでは、インクルーシブ教育は当たり前です。
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障害は病気ではない。
親や教師が一生懸命やっているのは、障害のある子を「治し」て、
少しでも「健常な子」に近づけるということ。
そうではなく、障害を「その子らしさ」「個性」ととらえる。
「個性を伸ばす」とは、「障害を長所に変える」こと。
そのためのきっかけは、大人が与えることはできない。
子ども同士の関係のなかで生まれる。
でも大人は、そのきっかけが生まれる土壌をつくることはできる。
障害があるから、手に負えないから、といって分断するとどうなるか?
障害がある子だけでなく、むしろその周りの子の大事な力を奪うことになる。
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そして、この本のなかでいちばん響いたところはこれです!
以上は、要約でしたが、これは、そのまま引用します。
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定年を迎え退職する女性教員が、最後の日に、
職員室で若者の先生に向けて叫びました。
「みんな、学びは楽しいよ!」
その日を最後に教師を辞める60歳のベテランの教員の言葉を耳にしていくうちに、
若者の教員たちの目が、だんだんと輝いてきました。
「私ね、大空小学校に来るまでは、先生の仕事は子どもを指導すること、
子どもを変えることだと思っていた。
だから、子どもが変わらないといらいらしたよ。
子どもが変わるまで、これでもかこれどもかって、自分の力を必死に出した。
子どもを変えることが教員の仕事だと信じていたからね。
だから苦しかったわ!
でも、大空小学校に来て、教員の仕事は「教えることではない」と、
この5年間、体で教えてもらった。
「学びとは、人を教えることではなくて、自分が変わること」だと知った。
だから今60歳になっても、自分を変えようと思えば、
まだまだ変われる自分がいる。
それに気づいたら、この先の人生も、こんな楽しいことはない。
学びは、本当に楽しいよ」
そう言って退職していきました。
これが教師生活をまっとうした一人の人間の残していった声。
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おまけにもう一つ、この本の前に読んだ本からの引用です。
これはFacebookのSol Cafe ページにも、
【味わい「ことば」ノート】20として掲載したものです。
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『「みんなの学校」が教えてくれたこと』(木村泰子著 小学館)より
私がとても尊敬している、長年部落問題に取り組んでこられたリーダーが、
こう言われました。
「木村さん、暗いところにおると、明るいところはよう見えるやろ。
でもな、明るいところにおったら、暗いところは全然見えへん。
明るいところにおって、暗いところを見ようと思うたら、
「見よう」と思わな見えへんのや」。
この言葉が、私の心のなかに常にあります。
「見よう」と思わなくては、「暗いところ」にいる子どもの心は見えません。
そして、そうやって見ようとしてくれる大人のそばで、
子どもは初めて安心して笑顔を浮かべます。
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