つづいて、
『あるがままの自分を生きていく インディアンの教え』松木正著
からの引用です。
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「あなたらしい」とか「あなたらしく」と言われて、
カチンときたことはないだろうか。
「私のことなんて知りもしないくせに、知ったこと言わないで!」
まわりに流され、あるがままの自分を見失い、心細く感じているとき、
「あなたらしくない」なんて言われたときには、かみつきたくなる。
「自分らしく」という言葉は、ぼくも好きではない。
この言葉には、どこかに正解があって、しかも正解は他者が持っていて、
それに近づけば周囲が認めてくれるような、客体性の強さを感じる。
自分が自分として生きていけたら、それこそが幸せだ。
「何が自分らしいの?」と探し始めるから、見つからなくなって、
いつまでも、自分探しをしてしまう。
答えがどこにあるのかと思ってしまう。
正解など、本当はどこにもない。
自分の魂が「OK」を出すしかない。
ぼくのOKサインは、「嬉しい」という感覚でやってくる。
「なぜ、この仕事をしているのですか?」と聴かれたら、
「それをしていると、僕自身が嬉しいからです」と答える。
「嬉しい」は魂のOKサインだ。
「楽しい」は「嬉しい」と似ているけれど、少し違う。
(中略)
「楽しい」は、一時的に起こる感情で表面的だ。
だが、「嬉しい」という感覚は、
自分の魂の深いところで出会う感情だと思う。
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私の場合、子どもたちと一緒にいるのは「楽しい」と思ってきたけど、
本当は、「嬉しい」という方が当たっているよね、と思えました。
放課後子ども教室に来るのが「楽しい」と子どもたちが思えるようにするのが、
私を含めたスタッフのすること。
子どもたちが「楽しい」と感じることができれば、
私は、「嬉しい」と感じます。
私の場合、子どもたちと同じように無邪気にはなれないので、
子どもたちを見守りながら、
子どもたちの笑顔を見る、
話しかけてくるのを聴く、
ちょっと大丈夫かなと思った子がほかの子と一緒に遊ぶのを見る、
それが「嬉しい」と感じるわけです。
「楽しい」が一時的感情、「嬉しい」は心の深いところで起こる感情、
この感覚から言うと、
私には、子どもたちが「楽しい」と感じられる場をつくることはできますが、
子どもたちが「嬉しい」と思えるようにすることは、
私にはできないと思っています。
「楽しい」は、doingから起こる感情であり、
「嬉しい」は、beingから起こる感情だと思えるのです。
「楽しい」が続いていくと、beingに
「健やか」「ゆとり」「おおらかさ」が生まれ、
「嬉しい」になっていくのではないか、
これを書きながら、そう思えるようになりました。
写真は、特に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。