田坂広志さんの著書『運気を磨く』に、「無邪気」という言葉があった。
表面にポジティブな想念を引き出しても、
無意識の世界にネガティブな想念が生まれてくる。
それがないのが、無邪気な子どもだと、田坂さんは言われている。
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「君は大人になったら、何になりたいの?」と訊いたとする。
もしその子が
「うん、僕は、大人になったら宇宙飛行士になるんだ...」
と答えたとしても、この子の心の中に、
「なれるだろうか...」
「なれないのではないか...」
「なれなかったらどうしよう」
といったネガティブな想念は決して生まれない。
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一方、
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大人は、「無邪気」な子ども時代を卒業しているばかりか、
なまじ「分別」を身につけているため、
心の中に、容易にネガティブな想念が生まれてしまう。
「分別」とは、「真と偽」「善と悪」「美と醜」
「達成と挫折」「成功と失敗」「勝利と敗北」...
物事を二つに分け(別け)てしまう営みである。
そのため「分別ある大人」は、何かのポジティブな想念を抱いた瞬間に、
対極にあるネガティブな想念を抱いてしまう。
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私は、毎日放課後子ども教室で、小学校1年生と2年生を中心に、
少ないながらも6年生までの子どもたちと接している。
学童保育でもそうだったが、年齢が10歳未満の子どもたちは、
ほんとうに無邪気だと肌で感じている。
自分をさらけ出し、楽しいときに心から笑い、
悲しいとき、怒りのときも、感情をあらわにする。
先週金曜日にも都内の中学校に行って、
中1の子どもたちにドリームマップ授業をしてきた。
12-3歳になって、思春期にさしかかった子どもたちは、
なかなか無邪気というわけにはいかない。
ドリームマップで、小学校4年生、6年生とも接しているが、
学年が上がるごとに、その子本来のものが見えなくなってくる。
昔っからそうだったのだろうか?
子どもから大人に成長していくので、当然無邪気さは少なくなる。
しかし、大人は無邪気ではないというのは、そうなのだろうか?
大人は無邪気であってはいけないと、思っている節もある。
無邪気は、邪気がないということ。
これは、人間本来のあり方ではないだろうか。
生まれ落ちたその時に邪気なんてあるだろうか?
- ライオンが弱い草食動物を捕食するのは、邪気からではないだろう。
- 熊が人間を襲うからと言って、彼らに邪気があるということではないだろう。
- 蜂が人間を刺し、スズメバチに刺されたら死ぬこともあるけど、蜂に邪気があるとは言えない。
そう考えると、邪気は、人間にしかないようにも思える。
人間は、人間に不都合なものを排除してきたという歴史がある。
また、人間にとっての快楽を得るために、
他の生物や環境にどんな迷惑をかけるのかということにはお構いなく、
至極自分勝手なことをしてきたといえる。
だから、人間同士でも傷つけ合い殺し合うことが、
正義だと言って憚らない多くの人たちがいる。
ついでに言うなら、今の自民党政治を見ていると、
自分たちのご都合主義で、国民の幸せは二の次になっているよね、
そう思えてしまう。
これこそ邪気ではないか。
自分が生まれながらに持っている大事なものを見失ってしまった結果、
邪気に囚われてしまっているとしたら、
いま私が接している子どもたちが大人になったとき、
無邪気な心を持ち続けてほしい、そう願うばかりである。
子どもたちが、今の教育システム、世の中の仕組みに支配されて、
心を閉ざしていかないように、今の私にできることは、
- 放課後子ども教室で、子どもたちが思いっきり遊べるように見守る。
- ドリームマップで、自分の将来に向かっていく活力(自分を信じる力)、将来いつか芽生え、育つのタネが宿るようにお手伝いする。
これらを精一杯やっていくこと。
写真は、特に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮った写真を適当に貼っています。