<Tip & Episode> 言うは易しだが...②_人の間で生きる場合

前回の続きです。

 

自分ひとりだと、何かいやなことを言われても、

「気にしない」「気にならない」

ようにすることは、なんとかできそうです。

 

しかし、自分が責められるのではないとき、

これが、そう簡単なことではないと思えるのです。

 

6月初めから7月初めにかけて学童保育で起こったことで、そう感じるのです。

 

6月初めに、本部の意思で新しい職員がやってきました。

その人によって、子どもたちはとてもつらかったと思います。

そのつらさを見て、もとからいる大人もつらくなりました。

子どもたちが学校から帰ってくると、玄関で、

「○○、いる?」って聞くんです。

「今日はいないよ」というと、

「やったー!」と大喜びです。

「二度と来てほしくない」という子もいます。

 

子どもたちに対するその人の一挙手一投足が、とても気になります。

 

最終的には、その人も自分の非を認める形にはなっていて、

先週は昨日の土曜日以外は、一度も来ていませんし、

今週もたぶんこないでしょう。

昨日は、私と二人で一日一緒でしたが、一応平和でした。

 

このように自分以外の人、特に子どもがつらい思いをするのを見て、

「気にしない」「気にならない」ということは、それこそ不可能です。

 

3次元的な解決法は、

「戦う」「逃げる」「我慢する」の3つだけでしょうか?

 

私には、もう一つ第3の道(第4というべきか)があると思います。

「向き合う」です。

 

ガンになったとき、ガンと「闘う」のではなく、

ガンと「ともにある」という生き方があります。

起こっている事実は変えられないのだから、

その事実を’「受け止め」て、対話するという方法です。

そうすることで、感謝が生まれてきたりします。

 

私も最近、『ありがとうの神様』を読んだり、

日々ありがとうと、心の中で言っています。

 

今回の学童保育のことも、一応の解決を見たわけですが、

それは、「向き合った」からです。

 

純粋さの軸と輪 - Sol Cafe 『幸せの栖(すみか)』

それはここに書いた通りで、

仲間とともに、信じる軸をブラさない

ということです。

 

自分ひとりでできることは限られています。

ひとりで悩まず、仲間と支え合うことが不可欠です。

その意味でも、日ごろから一人でもいいから、

助け合える仲間をつくり増やしていくこと、

それは、その人(たち)と楽しめる場を共有することだと思います。