よく使われる「成功」って何?と聞かれると、はて?と考えてしまう。
まず、辞書で調べると、こうなっている。
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《公事(くじ)をつとめて、功を成す意》
平安中期以降に盛んになった売官制度。
私財を朝廷に寄付して造宮・造寺などを行った者が、
その功によって官位を授けられるもの。
1 物事を目的どおりに成し遂げること。
2 物事をうまく成し遂げて、社会的地位や名声などを得ること。
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結局、物事を成し遂げることだが、
そこに地位・名誉がないと成功とはいえない、そんな感じがする。
落合陽一著『働き方5.0』に、こんなことが書かれていた。
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前に友人と「この世でいちばん幸せな人は誰か」
という話で盛り上がったとき、私がたどり着いた結論はこうでした。
「ブータンの山奥で、いつか世界を変える(と自分では思っている)
ビジネスモデルを作っている人」
べつにブータンではなくてもいいのですが、
物質的には決して豊かではないが、
人間的に幸福でいられるような社会が提供される場所で、
誰に評価されることもなく、自分の妄想の世界に閉じこもって、
ひとりで世界を変える作戦を練る。
まわりから見れば、ただの変わり者かもしれませんが、
本人にとっては至福の日々でしょう。
その幸福感を否定できる人はいません。
「まだ何もしていないのに幸福なの?」
そんな疑問を持つ人もいるでしょうが、
ブータンの山奥にいる「彼」にとっては、
「いつか」が訪れた時点で最大の幸福感は消え去ります。
それは「成功」かもしれないけれど、「幸福」とは違う。
その2つは必ずしも一致しません。
たとえば、事業で大成功を収めた大金持ちは、
まわりから見れば羨ましくて仕方がないけれど、
本人が幸福感を持てているかどうかはわからない。
大金持ちには大金持ちの苦労があるからです。
ヒット曲を連発するアイドルなども同じこと。
むしろ、
いつかブレイクするための方法を考えていたインディーズのときのほうが、
幸福感は大きかったかもしれません。
「成功」と「幸福」は同じではないのです。
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「成功」は、功を成すことだけど、その功とは何?
自分の中の成長とは違って、他人よりも優れたことや働きをして目立つこと、
というニュアンスがある。
その状態になることを終着点と勘違いしてしまうと、
その地点に立ったとき、目線は足下に向いたり、
後ろを気にしたりすることになってしまうだろう。
その成功状態を何としても守り抜きたい、
そんなことになってしまいがち。
そこに、「幸せ」があるかというと、そうは思えない。
コロナ禍で暴露されてきている
世の中で成功したと思える人たちのあり様を見る限り、
彼らは、意欲や意思で動いているのではなく、
ましてや、志とはほど遠い、
なんというか強迫観念で動いているように見えてしまう。
落合陽一さんの言うように、「幸せ」とは、前を向いて「成功」、
あるいは「夢」や「目標」を目指しているときにこそあるとすれば、
その「成功」とは何か?
地位・名誉・お金を手にした「成功者」の次の成功とは何か?
それは、より大きな、より高い地位・名誉・お金なのだろうか?
もしそうだとすれば、成功するたびに幸せ感は失われていくことになる。
一度や二度は、それが大きかろうと小さかろうと、
自分のために成功することはあっていいし、それは必要なことだと思う。
しかし、成功と幸せが一致するためには、
その次からの成功は、自分の成功のためではなく、
他人の成功のため、幸せのためである必要があるだろう。
「成功」には、自利から利他への成長のサイクルがあると思えるのである。
そう考えると、自分の「成功」とは、自分以外の人が「成功」すること、
そして、その人が自利から利他への成長のサイクルに入ること、といえよう。
そもそも、功を成そうと意識すること自体に、すでに邪心があることになる。
人のために尽くそうとする人は、「成功」という言葉を使ったりはしないし、
思ってもいないだろう、私はそう思っている。
私は、感覚的に「勝利」「競争」「成功」などという言葉が好きではない。
「コロナに勝利した証として」とこともなく言われているのは、どうして?
写真には、特に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
散歩中に撮ったものを適当に貼っています。