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わたしは種です。
何の種だかわかりません。
小さな種の私は地面に落ちて、その上に落ち葉が重なっていきます。
雨が降り、時には雪が降り、少し冷たくはありますが、
心地よい湿り気を体に感じます。
小さなわたしにエネルギーがみなぎり、
それが根となって、地面に潜っていきます。
頭の上は冬の寒さ、時折雪がうっすらと積もります。
その下にあるわたしは、しっかり根を伸ばし、
息をひそめて時期が来るのを待っています。
だんだん地面の上の日差しも、
柔らかく温かなものになってきました。
元気に外に出る時期がやってきました。
わたしは芽を出し、種ではなくなります。
地上に出て、双葉になります。
根から吸い上げられる水分と栄養で、茎がどんどん伸びていきます。
春から夏にかけて、幹から出た枝に葉っぱがいくつも生まれます。
やがて秋が来て冬になり、そしてまた春が巡ってきます。
それが何度か繰り返されて、小さな種だったわたしは若木となりました。
年を経るごとに幹は大きく太くなり、年輪を重ねていきます。
何年も何年もたって、わたしは立派な大きな木になりました。
そんなわたしは、今年も、毎年微妙に違う、
移り行く春・夏・秋・冬を楽しんでいます。
春には、枝枝の先や節々から若芽が出て、やがて花が咲きます。
遠くからは、鮮やかで、かつ、やさしく感じられる花のまとまりです。
近くで見ると、とっても可憐な、一つ一つがかわいい花花です。
夏になると枝葉が大きく広がり、緑の葉っぱが風にそよぎます。
根は地面いっぱいに張りめぐらされ、かなり奥深くにも達しています。
そこから吸い上げられた水分や栄養素が、幹を通って枝葉に届きます。
緑の葉っぱは満面に太陽の光を浴びて、
二酸化炭素を取りこみ、新鮮な酸素を吐き出していきます。
そんな命の源のようなわたしは、鳥や虫たちを引き寄せます。
たくさんの鳥や虫たちが、幹や枝はに抱かれて生活しています。
たわわな葉っぱのおかげで、地面には木陰が拡がり、
そこでは、夏の強い日差しを避けて、人々が憩いの時間を過ごしています。
花の後にはおいしそうな実ができています。
それを鳥たちがついばみ、リスなどの小動物が食べます。
残って落ちた実から出たり、鳥やリスなどの糞に混じって出た種は、
またどこかで芽を出し根付いていくのかもしれません。
そんな命が躍動する夏が過ぎ、台風がやってきました。
わたしは、強風や豪雨の体当たりを受けます。
でも、根は大地を踏みしめ、大きな幹が木全体を支え、
枝葉は無理することなくしなりながら、厳しい時間を耐え抜きます。
秋が深まり、涼しくなり、日が短くなってくると、
葉っぱは色づきはじめます。
まわりの木も紅葉し、その美しさが人々の目を和ませます。
そんな落ち着いた時間が過ぎていくと、しだいに寒さが増してきます。
紅葉のあと枯れた葉っぱは、風に吹かれるまま地面に降りて一休みです。
そして、何年かかけて土に帰り、栄養となって、
木というわたし自身の営みを支えるのです。
寒い冬は充電の時間です。
春から秋にかけて体験したことを振り返りながら、じっと瞑想しています。
寒くて震えていても、とても心は穏やかです。
やがてまた春がやって来る、わたしはそのことを知っていて、
自然はそれを裏切ることはないのですから。
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これを詩と呼べるかどうかわかりませんが、
詩は自由に書けばいいのでしょう。
講習を受けただけで何もやっていないのですが、
私は、ネイチャーゲーム・リーダーにもなっています。
そのゲームの中に、「木の一年」「私の詩」というのがあって、
かつて、「裏山でSol Cafe」の時に、
それを試してみようと思ったことがありました。
そのために作ったのが、この詩でした。
それが残っていたので、少し手を加えて、
【詩集】の冒頭に掲載してみました。
これを今回やってみて気づいたことがあります。
この詩を書いたときには、いい感じでできたなと思ったものです。
でも、今回もう一度読んでみて、手を加え、さらに読んでみると、
木のことを本当に理解していなない自分に気がつきました。
上っ面じゃダメだなと思いました。
感性はもちろん大事、そして、知識や観察もおろそかにしてはいけない。
そう感じたのです。
詩集というからには、これを機に、
徒然に詩を書いていくということなんですね。
たぶん、きっと。