今週も、22日の祝日以外は、毎日学童保育に通った。
今日の土曜日も、一人の子と過ごすために出かけていく。
そんな今週も、いろんなことが起こった。
それが日常といってしまえばそうだけど、
しつけとは何かを考えさせられる場面の連続である。
しつけとは、誰のためにするのか?
「子どものため」という、当たり前の答えを素直に信じてよいのだろうか?
「片づけられない子どもたち」といっても、
ちゃんと片づけできる子もいれば、
人の片づけを手伝う子もいれば、
片づけるという不自然なことはやりたくないと感じている子もいるし、
片づけるということへの意識がない子もいる。
片づけができる子がいい子、
片づけができない子がよくない子
必ずしもそうとは言えない。
しかし、どうしても、できる子がいい子に見えてしまう。
片付けができる子は、どうしてできるのだろうか?
片づける意識がない子は、 どうしてそうなのか?
片づけができる子を見ていると、無理しているようには見えない。
自然と身についてきているのであれば、それはいいこと。
片づけができない子を見ていると、いくつかタイプがある。
違うタイプでも、共通にいえることは、
やれるようになる、できるようになるには、時間がかかるということ。
そして、「片づけしなさい」という
だれに対しても同じ言い方や、型にはまった言い方で
うまくいくということもない。
まして、無理やりやらせたり、脅したりするのは逆効果だと思っている。
『魔法のしつけ』長谷川博一著には、こう書かれている。
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今、親がしているしつけを、
「子どものために」と決めつけないようにすることができるでしょうか。
本当は、親が「してほしい」と思っているのだということに気づけるでしょうか。
子どもは部屋の整理整頓も、
「整頓できるようになれば、本人のためになる」というのは誤解で、
「整頓してもらいたいと親が思っている」とするのが正しいのです。
一度、このように自分に言い聞かせてみましょう。
整頓にこだわるのは、親がそうやってしつけられて、
整頓癖がついてしまっているためかもしれません。
「食事前に必ず”いただきます”と言わないと、
子どものためにならない」こう思っているとしたら、
次のように言い換えましょう。
「親がどうしても子どもに”いただきます”と言わせたがっている」
(中略)
もちろん、「片づけられない人になればいい」とか、
「いただきますを言わなくていい」ということではありません。
今、親が子どもにさせようとしている、そのことが、
子どもがすぐにできなくてもいいのに、
今すぐにできなくてはならないと勘違いしていないかという心の余裕を待つこと。
そして「子どものために」と思い込んでしまうと、
このように強制から抜け出せなくなってしまうのではないか、
という疑問を保ち続けること。
それによって親も楽になることを伝えたいのです。
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