『ちいさい・おおきい・つよい・よわい 「遊びの本質」』
(天野秀昭著 ジャパンマニシスト社)の最後の大事なポイントの前に、
こちらの本から、まず引用します。
『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(内藤朝雄著 講談社現代新書)
この本は、とても学術的で、難しく書かれていました。
2009年の出版なので、私の感覚では、ついこの間のように思えるのですが、
この本に書かれているいじめの事例は、もう15年以上前、
たぶん20年くらいの歳月を経ているのです。
そのいじめの事例は、とても暴力的です。
そして、教師が加担したり、自殺した被害者をせせら笑うなど、
ありえないと思えるものが多く、やるせなさを感じるものばかりでした。
いまはネットの時代でもあり、いじめの様相は、
肉体的暴力から、精神的暴力に変化し、より見えなくなり、
より深刻さを増しているのではないかと思えます。
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- いじめの場を生きている生徒たちは、ある意味では、「人間関係が濃密」であり、別の意味では「希薄」である。
- 彼らは、ある意味では「幼児的」であり、かつ別の意味では「大人びて」いる。
- また、あるタイプの「秩序が解体」しており、かつ別のタイプの「秩序が過重」である。
- 自然言語的了解(ことばのニュアンス)としては、「幼児的」「大人びた」計算高さと矛盾するが、いじめの場において、「幼児的」と呼ばれる特徴を、「大人びた」と呼ばれる特徴は、表裏一体となっている。つまり、「大人びた」しかたで「幼児的」なノリを生きている。
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これを読んでも何のことかよくわかりません。
ただ、いじめの本質は、「ノリ」や「遊び」だということのようです。
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少年たちは、何に対しても「むかつく」と言う。
しかし、じつのところ、当の本人たちも、
自分が何に「むかついて」いるのかわかっていない。
この「むかつき」は、
「おなかがすいた」「歯が痛い」「あいつに嫌なことをされたけど、
仕返しできないからくやしい」といったものではない。
また、何をしたら解消するといったものでもない。
親とけんかしても/けんかしなくても、
男子と女子が仲よくしていても/していなくても、
理科室のにおいがしていても/しなくても、彼らはむかつきつづけるだろう。
この「むかつき」は、何かに対する、輪郭のはっきりした怒りや不満ではない。
そうではなくて、「存在していること自体がおちつかない」
「世界ができそこなってしまっている」ような、
漠然としたいらだち、むかつき、おちつかなさ、である。
こういう、いわば、存在論的な不全感に直面したときのかけ声が
「むかつく!」なのである。
さて、少年たちは仲間と集まり、
暴力によってかたちを与えられる全能感によって、
この「むかつき」から「守られ」「何でもできる」気分になる。
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たぶんそうなんだろうなとは思いますが、
なぜ子どもたちは、何事にも「むかつく」ようになったのか、
それが一番大事だと思うのですが、
この本にはその答えはありません。
いじめは、学校という狭い空間で起こるといいます。
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狭いところに閉じ込めて、
「友だち」を自由に選べないようにしている学校では、
次のような屈従と人格変容が起こりがちだ。
すなわち、自分を迫害し、
信頼を裏切る悪意の「友だち」との関係で苦しむとき、
より美しい関係を求めて「友だち」を変えるのではなく、
自分自身の「こころ」の方を、
「友だち」に仲よくしてもらえるように変えようとする。
それがどんなに酷い「友だち」であっても、
それが「いま・ここ」のきずなであれば、
学校の「友だち」にしがみつくようになる。
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だから、学校の制度の枠組みを変えることが必要だというわけですが、
具体的にどうすればよいのでしょうか?
この数行より、もう少し詳しく書かれていましたが、
いまいちピンとこないのです。
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- 現在、人々を閉鎖的な空間に囲い込んでいるさまざまな条件を変える。
- 生活圏の規模と流動性を拡大する。
- 公私の区別をはっきりさせ、客観的で普遍的なルールが力をもつようにする。
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そんないじめを、加害者の方から見ると、こういうことのようです。
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いじめの加害者は、いじめの対象にも、喜びや悲しみがあり、
彼(彼女)自身の世界を生きているのだ、ということを承知しているからこそ、
その他者の存在をまるごと踏みにじり抹殺しようとする。
いじめの加害者は、
自己の手によって思いのままに壊されていく被害者の悲痛のなかから、
(思いどおりにならないはずの)他者を思いどおりにする
全能の自己を生きようとする。
このような欲望のひな型を、加害者は前もって有しており、
それが殴られて顔をゆがめるといった被害者の悲痛によって、現実化される。
これがいじめの全能筋書きである。
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なんだか、とっても悲惨で、恐ろしいことすね。
しかし、それと同じようなことが、
その理由は、『ちいさい・おおきい・つよい・よわい 「遊びの本質」』
(天野秀昭著 ジャパンマニシスト社)にも書かれていました。
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「いじめはよいくない」といわれ、それはこどももわかっている。
だから、見つからないようかくれてやっている。
そして、いつまでたってもなくならない。
なぜか?
人が傷つくのを楽しいと感じる子がいるから。
人を見下し、さげすみ、傷つけて泣く姿を見るのが楽しい。
それは、自分がそうされているから。
誰に?
大人に。
自分がやりたいことはやらせてもらえず、やりたくないことはやらされる。
自分が大切にされていると感じることができない。
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いじめはよくないと思いながら、いじめている子はいないでしょう。
いじめは楽しいと思えるから、やるわけです。
こんな悲惨なことが起こるのは、
その子が抑圧されて生きてきたからに他ならないのです。
幼児のときから、やりたいことを思う存分やってきて、
いまのいまを満喫できた子は、満たされています。
そういう子は、いじめをすることはないと言い切れる、私はそう思います。
私の偏見かもしれません、思い込みかもしれませんが、
「いじめ」をなくす方法は明確です。
それは、「やりたい」を満喫できるような子育てをすることだから。
しかし、それを、実現するのは、簡単なことではないのです。
「ここいまタウン」というコミュニティが、全国津々浦々に広まったとき、
「いじめ」はなくなる! そう思っているのです。
まずは、地域の子どもの「いまここ」を大切にする
放課後の居場所をつくりたい、そういう妄想をもち続けます。