『ちいさい・おおきい・つよい・よわい 「遊びの本質」』
(天野秀昭著 ジャパンマニシスト社)から、引き続き引用します。
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年齢が小さければ小さいほど、こどもは「いま」の連続で生きている。
食べたいものがあれば、いま食べたい。
大人の場合、
たとえば、今日ここに行くから何時に家を出なくてはいけないので、
夕食の支度を先にしておこうかとか、
また、2年後に独立するので、資格は今年からとる準備をしなくちゃととか、
逆算して「いま」やることを決めているわけ。
つまり「いま」のために「いま」を使っていることが、じつに少ない。
多くは将来のために「いま」がある。
大人は、こどもに早くから大人の時間の使い方を身につけさせようと思って、
たとえば、夏休みのスケジュール表のようなものをつくらせる。
それで「スケジュールどおりにやるように」というけど、
これは最悪の宿題だと、ぼくは思っている。
なぜなら、たいていのこどもは、そのとおりにはできず、
自己嫌悪感がひどくなっていくから。
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なるほど、その通りですね。
子どもには、「いまのいま」しかないんですね。
子どもを見ていると、ほんとうにそのように見えます。
逆に言うと、「いま」を生きられない子どもたちは、
「やりたい」を抑圧されて過ごしていることになります。
大人の「よかれ」という論理でやると、子どもを縛ることになります。
夏休みのスケジュール作りが、まさにそれに当たります。
夏休みの終わりになって、何もできていないで苦労するのは、
親ではなく子どもなのだから、やりたいようにやらせておけばいいでしょう。
逆に子どもは、夏休みの終わりに苦しんで、そこから学んでいくわけです。
スケジュール通りできなかったら挫折感になりますが、このケースは、
遊びほうけて「いま」を満喫した結果ですから、
子どもにとっては、本望ということになるでしょう。
「生きる力」が、育っていく感じがしますね。
さらに、天野さんはこうも言っています。
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ぼくは、「なるべく自分のこどもに向き合うな」といってきている。
親は、わが子だからできることももちろんあるが、
わが子だから許せなくなることもたくさんある。
ほかの子だったら、「バカだね~」と笑っていられることも、
わが子だから、「バカじゃないの!」と、目が三角になってしまう。
そうなったときはヘルプを出す。
「うちの子、もう無理! 私べつの子見るから、だれかうちの子見て!」。
こういう親の関係があること、それが最も豊か。
親はわが子を見すぎない。
よその子を見る機会をたくさん作る必要がある。
そうすると、
「うちの子バカだと思っていたけど、ほかにもこんなにいる」ことや、
それがほかの子だと、たいそうかわいい要素だったりもすることに気がつく。
ほかの親子のことも見えてくるので、
「正しさ」や完璧な子育てなんてどこにもないこともわかってくる。
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さもありなんです。
わが子ばかりを見ないで、親のつながりを大事にしよう、ということですね。
それができるのは、どんな場所かというと、
子どもたちが、「いまを生きる」場所、「やりたい」を満喫できる場所、
すなわち思いっきり遊べる場所であり、
そんな子どもたちを、親が心豊かに見守れる場所なんだと思います。
そんな放課後の居場所があればステキですね。
なぜなら、学校は、大人のつくたシステムであることと、
大半の学校は、社会的にいびつな場所でもあるからです。
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学校は、「社会性を身につける」所だと考えられているが、
同じ年齢ばかりが集められた社会は、ほかにどこにもない。
社会は異年齢で構成されている。
そういう意味で、学校というのはいびつな場所。
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学校自身が、「いびつさ」から「社会性を身につける」場所に変身すること、
そして、子どもや親の居場所となる放課後を創っていくことが、
子どもが育つ場として必要なんだと思います。
こどもは「いまのいま」を生き、大人は「先のためのいま」を生きているに、
立ち戻ってみます。
昨日書いた「きりがみ&きりくずアート」の準備のブログは、
これ以上ないくらい「先のためのいま」を生きる自分です。
その前日の散歩のブログも、「先のための下見のいま」でした。
大人になれば、どうしてもそうなるのです。
ポイントは、「先のためのいまを生きる」を楽しむことができるか、
ではないかと思えるのです。
子ども時代に、「いまのいま」を思う存分楽しむことができたら、
大人になっても「先のためのいま」を楽しめるようになる、
勝手にそんなことを思っている今日この頃です。
大人の「いま」と子どもの「いま」は、本質的にまったく質が違うのです。
それを理解できる大人でありたいと思うわけです。
写真に意味はありませんが、
リンクしてシェアしたときに、写真があった方が見栄えがいいので、
手元にあった写真を適当に貼っています。