あるがままの行く年

今日は大晦日、除夜の鐘が鳴る日です。

煩悩を祓うのが除夜の鐘ということなのですが、そもそも煩悩をなくすことはできるのでしょうか?

 

『釈迦に学ぶ』(ひろさちや)を読んで、なるほど!ということが書かれていました。

かなり長いのですが、書いておきたいと思いました。

 

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『論語』の中で孔子がこう言っています。

「子曰く、惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」

これを宮崎市定は次のように訳しています。

「子曰く、好むべき人を好み、悪むべき人を悪むことができたらな、それは最高の人格者と言える」

 

仏教の教え方だって同じです。

わたしたちは、「人を憎んではならない」「すべての人を愛しなさい」と教わって、それで人を憎まずにおられますか⁉ それで人を愛すことができますか⁉ どだい無理な諭です。だから仏教は、「人を憎んではならない」とは教えていません。

ではどうすればいいのでしょうか?

”思うがままにならないことを、思うがままにしようとするな”

というのが、仏教の教えになります。

 

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「四苦八苦」に関しては、次のように言うことができるでしょう。

苦が「苦」になるのは、苦を「苦)にするからだ。

苦を「苦」にしなければ、苦は「苦」にならない。

 

思うがままにならないことを、思うがままにしようとして悩み、苦しむのが、「苦」にしているということなんです。思うがままにならないことを思うがままにしようとしなければ、われわれは苦しみ、悩むことはありません。

だから、○○に苦しんでいる人は、ただ苦しめばいいのです。

それを、苦しみをなくす、あるいは軽減しようとするから、「苦」になってしまうのです。

 

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わたしたちは、たとえば子どもを亡くしたとき、悲しみ苦しむのです。それは、仏教を学んでいようがいまいが、同じです。誰だって悲しみ、苦しむのです。

釈迦は、それを第一の矢と呼んでいます。

ところが凡夫は、それに続いて第二の矢を受けるのです。

第二の矢とは、なんとかしてその悲しみ、苦しみを克服し、軽減させようとすることです。そんなことをすれば、ますます悲しみ、苦しみは深まるばかりです。そんなことはしてはならない、と釈迦は教えているのですよ。

(中略)

第二の矢を受けるなということは、悲しみに出会ったとき、苦しみに出会ったとき、わたしたちは、ただ悲しみ、だだ苦しめばいいのです。すんなりと悲しみ、すんなりと苦しむ。それが釈迦が教えてくれた助言です。私はそう考えます。

 

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わたしは、あるがままで年を越します。

煩悩は特になさそうですが、なにごとも、そのまんまで行きます。

 

今ここにこうやって生きていること、家族がみんな元気であること、こうして今年を終え、新年を迎えることができること、それだけで幸せです。ありがとうございます。

 

今年お読みいただいた方、ありがとうございました。

お読みにならなかった方も、ありがとうございました。

 

多くの人が、「幸せの栖」の住人となり、健康で幸せな人生を生きることができますように。